7-7「大口叩き」

 二時間後、わたしは『マンション・清流』の四階にある沢本の部屋の前にいた。


「……あれだけ威勢よく啖呵を切っておいて、全然見当違いのところを探しに行った挙げ句、ギブアップの連絡してくることってある?」


「面目ない」


「大体、最初に生学センターに向かったのはともかくとして、その次が何で藤見原埠頭なのよ。意味わかんないんだけど」


「海に向かってバカヤローって叫びたくなることもあるかなって」


「頭に豚バラの生姜焼きでも詰まってんの?」


「つくづく面目ない」


「……良いからさっさと上がって。そんなところで捨て犬みたいな顔して立ってると、近所迷惑だから」


 部屋に足を踏み入れるとすぐにコーヒーの良い香りが漂ってきた。わたしが送った降参のメッセージに「家にいるから来たければどうぞ」と返した後で、用意して待っていてくれたのだろう。


「はい。コーヒー」


 居間の椅子に座ったわたしに、沢本がマグカップを差し出してくる。舌がやけどしそうなくらい熱いが、潮風で冷え切った体にはありがたかった。


粗菓子ソガシもあるわよ」


 物部モノノベ氏と血みどろの構想を繰り広げそうなチョコレートはカカオ分70%で、熱い濃いコーヒーによく合っていた。


「あたしも飲も」


 沢本は少し小さめのカップに自分でコーヒーを注いで、立ったまま飲みだした。その表情は、打ちひしがれている風でもなく、自棄やけになっている風でもなく、一言で言えば普通だった。


「……意外と傷ついてないんだな」


 わたしが言うと、沢本がむすっと口を曲げた。


「このタイミングでそれを言う? 今あたしの心の大半を支配しているのはアンタに対する失望感なんですけど」


「アッハイ」


「まぁでもそうね。正直そんなには傷ついてないわ。いつかこうなるんじゃないかとは思っていたし、それに……今までがうまくいきすぎていたのよ。うまくいきすぎていたのが失敗だったと言うか」


「うまくいきすぎていたのが、失敗?」


 沢本はわたしの問いに答えるより先に、戸棚からミルクのポーションを取り出して、コーヒーと一緒にテーブルの上に置いた。


「アンタ、喫茶店で言ったわよね。あたしの復讐計画の本当の狙いは市内に張り巡らされた用水路を利用して土喰いの種を拡散させることだって。あれ、間違いだから」


「は? そうなの?」


 何で急にその話をし出したのかという疑問を相まって、つい声が大きくなってしまう。


「お母さんの復讐計画の狙いということなら正解なんだけどね。だから『悪くはない』って言ったのよ。そっちに行って良い?」


 わたしがうなずくと、沢本は椅子を動かしてわたしの隣に座った。そうしてマグカップにポーションの中身を開けて、ゆっくりとかき混ぜた。


「――あたしね、ずっと前から死のうと思っていたの」


 コーヒーの黒とミルクの白が混ざりきった後で、沢本は青い月を思わせるひんやりとした声でそう言った。


「あの河原で土喰いの種が芽吹いて、そこそこ育って、このまま誰かに邪魔されずにいけばきっとお母さんの計画どおりにいくだろうって思えたなら、その時に死のうって。……ちょっとアンタ、なんでスマートフォン触ってんの」


「命の電話の番号を確認しとこうと思って」


 取り上げられてしまった。


「お母さんがああいうことになってしばらくはさ、何もやる気が起きなくって。知らない人たちは好き勝手なことばっかり言うし、自称身内は偉そうなことばっかり言うし、秋田川さんはまぁまぁうざいし、なんかもう全部どうでも良いかなって」


 秋田川さんは『葬儀の後、遥は一層塞ぎ込んで、自分の殻に閉じこもってしまった』と言っていたけど、どうもそれは本当のことのようだった。ついでに秋田川さんがやっぱり沢本から鬱陶しく思われていたのも。


「そんなある日、お母さんの遺品の中から、例の大学ノートを見つけたの。あたしはお母さんのことを知りたい一心で、繰り返し繰り返しノートを読んだわ。そしてあたしは、お母さんの計画を引き継ぐことに決めたの」


 かつて沢本は言った。雪乃さんの計画で、この街の景色がどんな風に変わるのか。その景色を目の当たりにした人々がどんな表情を見せるか。それを確かめたいのだと。その時と同じ笑み、その時の同じ怒りが、今もなお、沢本の頬に張り付いている。


 なのに――その声が、月の温度のように冷たいのは何故なのだろう。わたしは妙な不安が湧き上がってくるのを感じながら、沢本の言葉に耳を傾ける。


「それからの一年間は、ひたすら品種改悪に没頭したわ。その頃のあたしにとっては、お母さんの復讐計画を完遂させることが生きる目的だった。あ、もちろん麻里伯母さんとかに邪魔されないために、学校の勉強もきちんとやってはいたけどね」


「その頃はまだ、死のうとは思っていなかったってことか」


 わたしが言うと、沢本は何故かくすりと笑って「そうね」と応じた。


「二年が経って、いよいよ次の春にはやれるという手ごたえを感じたわたしは、種まきに向けて本格的な準備を始めたわ。でも、その頃にはお母さんの計画が欠陥だらけだということも理解していた」


「例えば?」


「色々あるけど一番心配だったのはやっぱり、ある程度成長したところで市に駆除されてしまうリスクに関して、何の対策も講じてないことよ」


「実際それでダメになっちゃったしな」


 剣名川の河原は普段から人が集まる場所ではないが、それでも人の往来はある。どうしたって、土喰いが大きくなれば目立ってしまうのだ。むしろ夏まではほとんど見咎められなかったことの方が行幸だったと言うべきなのかもしれない。


「……でも、欠陥に気づいていたんなら、どうして修正しなかったんだ?」


「あたしがやりたかったのは、あくまでお母さんの計画だったから」


 沢本はそう言って、ずっと触らずにいたマグカップを口元に運んだ。


「やっぱり砂糖が入ってないカフェオレなんて、飲めたものじゃないわね」


「今からでも入れるか?」


 沢本はかぶりをふった。


「でも、お母さんの計画を修正せずに進めようと思った後で、気づいてしまったのよ。あたしの生きる目的には、って」


 わたしは言葉をかけることもできず、ただ、沢本の横顔を見つめる。


「……お母さんの復讐計画が成功しようが、失敗しようが、結局あたしは最初のあたしに戻ることになる。何もやりたいことがなくって、全部どうでも良いって思ってる自分と向き合わなくちゃいけなくなる。そんなのはもうたくさん。だからあたしはお母さんの計画がある程度うまくいったところで、結末を見届けることなく自分の人生を終わらせてしまおうって思ったのよ」


 雪乃さんの復讐計画と、それに乗っかる形で進んでいた沢本の復讐計画――。


「もしかして沢本が前から決めていた進路ってのはこれのことだったのか?」


「別に進学希望とは言ってなかったでしょ?」


 信頼できない語り手を気取りやがって。そう言いたいのをぐっとこらえて、わたしはもっと重要なことについて質問する。

 

ってことで良いんだよな?」


 あたしが雪乃さんの事件の真実を語った夜、沢本は『今から赤本買いに行くから付き合ってよ』と言って、実際に県大農学部の過去問題集を買った。そうであるなら、沢本は――。


「……このタイミングでそれ言う? あたしの進路を変更させたアンタが」


 果たして隣に座る少女は言った。何故だか、顔を真っ赤にして。


「わたし? 何でわたしが?」


「ああもう。自覚のない女ね! アンタがあたしの計画に割り込んできて、手を貸したから! 借りを作ったまま死ぬのも悪いと思って勉強を教えたらポンコツなくせして頑張るから! もうちょっと、もうちょっと、って先延ばししている内に死に時を見失ったのよ! 母さんの計画が完全に崩壊するのを見届けることにもなっちゃったし! 本当、最悪よ!」


 一気にまくし立てた後で、沢本は「あっち向いて」と言った。


 わたしが逆らわずに視線を外すと、沢本は「一度だけしか言わないから」と前置きして、再び話し始めた。


「……前にアンタ、あたしにもらってばっかだって言ってたでしょ? 違うよ。全然違う。本当はあたしの方がずっとたくさんのものをもらっていたんだ」


 わたしは何かを言う代わりに、沢本の小さな肩に、自分の肩をそっと当てた。


「あーもう。ここで肩コツンは反則、反則だって」


 語尾にすん、と鼻が鳴る音が重なった。こっそり様子を窺うと、さめざめと泣く沢本がそこにいた。


「見、る、な」


 顎を押さないでください。わたしは慌てて視線を天井と壁の境目に移すと、ポケットからハンカチを取り出して、肩越しに手渡した。


「なぁ沢本」


 泣き声が止んだところで、わたしはそう話を切り出した。


「雪乃さんの計画は失敗に終わったけどさ。わたしたちの計画はどうなんだ?」


「あたしたちの計画?」


「わたしはあの最悪な侵略的外来種がどんな風に成長し、どんな風に繁殖していくのかを見てみたい。正しい連中がどれだけ押さえつけようとも、どこかで根を張って、葉を伸ばし、花を咲かせるあいつら土喰いを見てみたいって、今も思っているよ」


 沢本を励ますためではなかった。わたしは本気でそれを望んでいた。


「……向こうの部屋で土喰いの栽培は続けてるんだろ? だったら、ここで終わりなんてのはナシだ。それこそ何年、何十年かかっても良い。地中深くを貫く根を持ち、チェンソーでも歯が立たないような外皮を纏う、何なら火星でだって生きていけるような最悪なサボテンを、わたしたちの手で作ってやろうぜ!」


 気負いすぎて、鼻が鳴ってしまった。


「それ、良いね」


 沢本はフランス人形の例えられる顔に柔らかな笑みを浮かべてそう言った後で、今度は小悪魔によく似た笑顔になって「まずは県大農学部合格からかな」と続けたのだった。


「お、おう」


 コーヒーをもう一杯ごちそうになったあとで、わたしは沢本の部屋を辞することにした。


「はい、これ」


 玄関で靴を履いていると、沢本が自室から戻ってきて、一冊の大学ノートを差し出してきた。もちろん雪乃さんが記した『Opuntia Mars 亜種の生育と交配についての備忘録』だ。


「サンキュー」


「ちゃんと受験勉強もやるのよ」


 そう言ってから、沢本は玄関の壁に取り付けられた姿見を見て「あ」と声を上げた。


「すっごい化粧崩れてる。塗り直さないと」


「まだこれから出かける予定があるのか?」


「今のところないけど、まだ明るいし」


 言いかけて、沢本ははっと息を呑んだようだった。


「どした?」


「ううん。何だろう。何でもない、と思う」


 珍しく歯切れの悪い沢本だが、どうもわたしに隠し事をしているわけではなく、自分でも何故息を呑んだのかわかっていないような口ぶりだった。


「ともかく、明日もよろしくね」


「オーケー、それじゃまた明日」


「「いつもの場所で」」

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