6-3「書き机」
学習センターの駐輪場に自転車を駐めたわたしたちは、花壇に水をやっているセンター長さんに会釈しつつ、館内に向かう。リンドウはまだ成長途上のようだが、コスモスはかなり花が開いてきている。今週末ぐらいが見ごろだろう。
「今日は……第二学習室ね」
「第二かぁ。あそこの椅子、やけに固くって、お尻が痛くなるんだよ」
「ぼやかないの」
入ってすぐのところに置いてあるホワイトボードで自習室に割り当てられた部屋を確認し、そこに向かう。ここのところ学習センターで勉強する高校生が少しずつ増えてきているとは思っていたが、今日も十人以上の先客がいる。以前のように、机を二つくっつけて、向かい合わせに座った沢本とあれこれやりとりをしながら勉強することは難しくなってしまったが、勉強のやり方自体は大きく変わっていない。教科書を読み込み、理解度を確認する――その繰り返しだ。
「ん」
わたしが古典文法のテキストを区切りの良いところまで読み進めると、隣に座った沢本がタイミング良く付箋付きの問題集を渡してきた。
最近は沢本が出す問題のレベルもかなり上がってきている。わたしは慎重に品詞分解しつつ、文章を読み解いていく。
と、最後の問題に取りかかったところで思わずぷっと吹き出してしまった。同室者たちからの視線が痛い。沢本のしてやったり顔はうるさい。
『今来むと 言ひしばかりに
小倉百人一首に採られたことでおなじみの和歌の横に『《有明の月》の意味を答えよ』と書かれた付箋が引っ付いているのだ。夏休み前に同じ問題を出されたときは、答えに窮して「有明海に浮かぶ月」と書いてしまい、心底呆れられたものだ。
そのときの復習問題――というわけではなく、単にじゃれついてきているだけだろう。わたしはだから、少し考えた後で、
沢本はわたしの答えを流し読みして、最後にちょいちょいと赤ペンで加筆した。
「はい」
戻って来たルーズリーフにはmoonの前に赤字で「the」が付け加えられていた。それともう一つ、「そろそろ休憩しない?」というコメントも。
ちょうど良い頃合いだったので、わたしはこくこくとうなずいて、沢本とともに第二学習室を出た。階段下の自動販売機でわたしはコーヒーブレイク。沢本はジンジャーエールブレイク。語呂が悪い。
「……何か悩みの種があるんじゃないの?」
けぷ、とかわいらしいげっぷをした後で、沢本がそう話を切り出してきた。どうも休憩というのは口実だったらしい。
「そんなに集中してたかな」
「こっちが八十点想定で渡した問題で、九十五点の回答を持ってくるくらいには」
「良いことじゃないか」
「それ自体はね」
沢本はそう言って、わたしをじっと見つめた。少し色素が薄くて、でも澄み切っていて、ちょっと苦手な二つの瞳。やっぱりごまかすことはできないようだ。
「……進路調査票の締め切りが今週末なんだけど、まだ書いてなくってな」
「決めかねてるの?」
「決める決めない以前に、なんて書けばいいのかわからないんだ」
スチール缶の中でコーヒーの黒い水面がゆらゆら揺れているのが伝わってくる。
「進学希望ではあるんでしょ?」
「そうでなきゃ沢本に勉強を教えてもらったりはしないよ。でも、特にやりたいことなんてないし、どの学科が就職に有利なのかとかもよく知らないから」
「相変わらず世の中なめてる感がすごいわね」
「そういわれると返す言葉もない」
わたしは冷たいスチール缶を口元に運んで顔をしかめる。今日ばかりはミルク入りのあったかいやつにしておけば良かった。
「そんな深山にひとつ、アドバイスをしてあげるわ。聞きたい?」
「そりゃあもちろん」
わたしは一も二もなくうなずいた。
「じゃあ教えてあげる。他人のアドバイスなんて、聞くもんじゃないわ」
絶句するわたしを真っ直ぐに見つめて、沢本はふんと鼻を鳴らした。
「深山がこれからどういう進路を選ぶにせよ、どうせ嫌になる時はくるわよ。だって深山だもの。そういう時に、踏ん張りが効くかどうか。大事なのはそこじゃない? そりゃあアンタにはああいう学科が向いているとか、こういう学科はよした方が良いとか、言うのは簡単よ。でも、それじゃダメなの」
わたしは口をつぐんだまま、沢本の言葉を心の中で反芻する。
今まで好きなことをやりなさいとか、得意分野を伸ばしていくのが良いとか、聞き心地の良いことを言ってくる年長者は何人もいたが、苦しいときに踏ん張りが効くかどうか考えるよう言ってきたのは沢本がはじめてだった。
わたしの脳裏にふっと、マウンドに立つピッチャーの姿が浮かび上がった。九回裏二死満塁まで追い込まれたピッチャーは、涼しい顔でキャッチャーのサインに首を振り、ど真ん中のストレートでストライクを奪い取る――。
調査票に何を書くべきかはまだ見えない。でも、近いうちにきっと見つけられる。そんな確信がわたしの中に芽生えていた。
「……ひどいアドバイザーだな。自分から話せと言っておきながら、答えを教えないだなんて」
照れ隠しにそんなことを言って、わたしはまたコーヒーをぐびりと飲んだ。今度は、苦みを正しくおいしいと感じられている。
「世の中なめてるやつにできるアドバイスなんてないってことよ」
「はいはい」
わたしはいつもの憎まれ口を軽くいなした後で、ふと思いついた疑問を口にした。
「そう言う沢本はどうなんだよ。前に進路はちゃんと決めてあると言っていたけど」
「そんなこと言ったっけ? まぁ、そうね。前から進路は一本に絞ってるわ」
「とか言う割に教えてくれないよな。そろそろ話してくれても良いんじゃないか?」
「あーうるさいうるさい。もう休憩おわりー」
沢本はそう言って、ジンジャーエールを一気飲みすると、わたしを待たずにどんどん学習室へと戻っていった。単に話すのが気恥ずかしいのか、話せない理由でもあるのか、ちょっと判じかねる態度だったが、とりあえず彼女が話したくなるまでは待つとしよう――。乙女にあるまじき盛大なげっぷをする小さな背中を追いかけながら、わたしは心の中でそう誓うのだった。
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