5-10「ラバー」

 ――勝てる気がするんだ。


 あの日、キャッチボールの合間に、順平はそんなことを言った。


「晴朗学園に? 思うのは自由だが」


「いつもいつも手厳しいな、樹は」


 苦笑いを浮かべてそう言うと、順平は少し強めにボールを投げた。ぼくも合わせて、速球を返す。パシン、パシンと小気味の良い音が、二人で使うには広すぎる公園に響き渡った。


 それから十分ほど投げ合った後で、順平の方から「少し休もう」と切り出してきた。こっちはまだまだ投げられるのに珍しいなと思いつつ、ぼくは逆らわずに彼のもとに駆け寄った。


「樹」


 ぼくからグローブを受け取ると、順平は上気した顔でぼくの名を呼んだ。


「うん?」


「晴朗との初戦、俺は勝つためにやろうと思っている」


「どうして?」


 自分では平静を装った声を返したつもりだったが、実際にぼくと順平の間にある空気を震わせたのは、潰れたカエルのような惨めたらしい声だった。


「部員たちが望んでいるから……いや、それは責任転嫁だな。俺がそう望んだ。これで最後になるかも知れないからな。悔いを残したくはない」


「順平が決めたことなら、ぼくに言えることは何もないよ」


「いや、ある」


「……順平?」


 怪訝な顔をするぼくに構わず、順平はぐいとぼくの手を掴んだ。


「試合を観に来て欲しいんだ。でもって、もし俺たちが晴朗学園に勝つことができたなら、樹に一つ、聞いてもらいたい頼みがある」


 ぼくにできること? そう聞くよりも先に、順平は言った。


 ――俺と付き合って欲しい。


 付き合うって、それはどういう? と、口に出して聞くことはできなかった。聞く必要もなかった。順平の顔が上気している理由が、キャッチボールのせいでないことに気づけば、答えは明らかだった。


 ぼくは順平の手を振りほどくと、曖昧に言葉を濁してその場から走り去った。


 一週間後の今。ぼくは、人のはけた野球場の一塁側スタンドで、バックスクリーンを見つめてぼんやりと立ち尽くしていた。スコアボードの九回裏の欄に刻まれた無情のゼロ。藤見原東高校野球部は0対2で晴朗学園に敗れ去った。


 ――順平はもう少し内角のその辺打てるようになった方がいいんじゃないか?


 ――これでも高校三年間で少しはマシにはなったんだっての。


 これは今朝の夢の中でのやり取りだが、似たような会話は実際にもあった。そして、順平は有言実行の人でもあった。九回裏、二死二、三塁の場面で内角ギリギリに投げ込まれたシュートを、コンパクトなスイングで確実に捉えたのだ。


 打球は大きく空を舞った。それが良くなかった。強い向かい風にさらされて、失速。スタンドまであと数メートルというところで、晴朗のセンターにキャッチされてしまったのだ。記録はフライアウト。終わってみれば、初戦で強豪校に当たった弱小校が敗れただけの、どうということもない試合だった。


「そりゃそうだ。はじめから結末は見え透いてたんじゃないか」


 ぼくはがらがらした声でそう言い捨てると、スタンドを後にした。それ以上語るべきことは何もない。何もないはずだった。


 ――もし、もしもだ。


 なのにぼくは、出口へと続く薄暗い通路を歩きながら、よしなきことを考え始めてしまう。


 もしも順平が『晴朗学園に勝つことができたなら』などとくだらない条件をつけずに、あの言葉を言っていたら、ぼくはどんな返事をしたのだろう、と。


 それでも順平のことを裏切り者だと思ったのだろうか。それとも、気の置けない親友との関係を更新する良い機会だと思うことにしたのだろうか。


 わかっている。無意味なifだ。順平は達成不可能な条件をつけてぼくに交際を求め、必然的に条件を達成し得なかった。ぼくの心が順平になびくことは金輪際ないし、順平も今さらの敗者復活戦を望みはしないだろう。


「深山」


 球場を出てすぐに、慣れ親しんだ少女の声が聞こえてきた。


「東高、負けたよ」


 ぼくがやっとのことでそう言うと、少女は返事をするより先に駆け寄ってきて、無理矢理にぼくの首に両手を回すと、いつになく優しい声で「お疲れ様」と言ったのだ。


 それが決定打だった。


 ぼくは泣いた。ボロボロと大粒の涙をこぼして泣きまくった。


 そうして――ぼくと順平の恋は、花咲くこともなく、芽吹くことさえなく、静かに終わったのだった。

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