5-9「純朴な人」
――野球を始めたきっかけはよく覚えていない。
ただ、小さい頃に父とよくキャッチボールをしていたことは覚えている。多分、その延長で何となく野球をやってみたいと口にしたところ、あっさり認めてもらったというだけで、さしたる理由はなかったのだろう。小学校に上がってすぐの頃の話だ。
小学校時代に所属していた野球チームでは、男子も女子も揃って当たり前に練習していた。平等主義とかそういうことではなく、単に子どもの数が少なくて男女に分かれる余裕がなかったのだと思う。周りも大体そんな感じで、男子だけのチームの方がむしろ珍しい状況だったと記憶している。
とは言え、女子が四番でエースという例は他になかったと思う。妹と違って幼少の頃から体格に恵まれていたぼくは、チームの誰よりも多くヒットを打ち、チームの誰にも文句を言わせない球でアウトの山を築いてきた。
だからまぁ、中学に進学してからも何の疑問も抱くことなく、リトルリーグに入ることにした。入ることにしたのだが――。
――ピッチャー志望? 女が?
黒須ファイヤーズに入って初めての練習で特に気負うわけでもなく『深山樹です。ポジションはピッチャーです』と自己紹介したところ、同輩の一人が鼻で笑ってそう言った。それでふと周りを見渡して、気がついた。チームにぼくを除いて一人の女子もいないということに。
それでもぼくは運が良かった。大らかな性格の監督がとりあえず本人希望のポジションでやらせてみようと、同じく本人希望でキャッチャーポジションについた順平と組むよう言ってくれたのだ。
――俺、石渡順平。とりあえず楽しくやっていこうぜ。
気安い口調でそう言ってミットを叩く、いかにも野球少年という風貌のパートナーに、ぼくは好印象を持った。
練習はまぁきつかった。生理と重なった日は特にそうだった。でも、きついだけではなかった。中学校に入ってからも伸び続ける身長、週単位で上がっていく球威球速、監督に教えてもらった変化球を自分のものにしていくあの感覚――成長を実感できる日々を、ぼくは間違いなく楽しんでいた。
脳筋かと思いきや意外にも配球オタクの順平とウマが合ったのも奏功した。秋の新人戦でスポットながらそろって出場し、打者三人を打ち取って勝利に貢献した。感極まった順平がぼくの肩に何度もミットを叩きつけてきたけど、正直あれは痛かった。
中学二年になっても成長を実感できる日々は続いた。身長は百六十五センチの壁を突破してなお伸び続けていたし、球威球速に限らず運動能力全般もずっと向上し続けていた。
ただ、一緒に黒須ファイヤーズに入った男子たちの著しい成長を実感する機会も増えるようになった。徒競走で今まで一度も後れを取ることのなかった男子の背中を見ることになったり、クロスプレーで思わぬ圧力に弾き飛ばされることになったり、ずっとぼくの投球を受け止めてくれたパートナーの身長がついにぼくのそれを追い越したり。
――なぁ樹。お前、結構コントロール良いし、もう少し複雑な配球にチャレンジしてみても良いか? うまく討ち取れればきっと楽しいぜ!
――それで勝てるんなら。
――勝てるし楽しいぞ!
中二の秋頃には、球威球速の成長は打ち止めになっていた。代わりに、順平のリードを外すまいと死に物狂いで練習した結果、制球力だけはそれなりのものに仕上がった。おかげで最後の一年はずっと順平と共にスタメンに指名され続けた。
――オーケーオーケー! 樹は本当にコース外さねーな!
ぼくの強みが制球力であるということを理解し、それを最大限伸ばし、活かしてくれた親友には感謝してもしたりないと思う。
でも、白状すると、コントロールで打者を打ち取ることを意識し始めた頃から、ぼくは少しずつ野球が嫌いになっていったのだと思う。
四番の座は順平に明け渡したものの、ぼくは女子エースとして勝ちを拾い続けてきた。いや、言うほど勝ててはなかったかも知れないけど、他の誰が投げるよりも勝算があると、監督も順平も他のチームメイトもみんな納得して、マウンドに送り出してくれた。
だけどそれは、勝ちの目がなければマウンドに立つ資格がないということと同義であって――。
練習がない日もスポーツ公園の練習場に行って投球練習をしていたぼくの手はいつも血豆だらけだった。大会に出れば女子選手の登録があるのは黒須ファイヤーズだけ。奇異の目に晒されながら投げるのは、早くもなく重くもない、平凡な球。
――いつまでぼくは。いつまでお前と。
こんなやり方で勝ち続けることなんてできるわけがない。勝ちの目がなくなれば、ぼくらが一緒に戦う理由はなくなってしまう。順平――そんなことはお前だってとっくにわかっていたことなんじゃないのか?
ワアアアアア!!
歓声で我に返ったぼくは、一塁側スタンドへと続く階段を急いで駆け上がった。ちょうど今ので東高の攻撃が終わったらしく、ベンチに引き返していく晴朗学園の選手たちが目に映った。
(点差はどうなってる?)
心音が早くなるのを自覚しながら、ぼくはゆっくりとバックスクリーンに視線を移した。
「マジか」
思わず声が出た。四回裏終了時点で0対0。ヒット数だけで言うならむしろリードしているくらいだ。どうやら順平たちは思っていた以上に善戦していたようだ。
「しまっ! てっ! くぞー!!」
順平が吠え、ナインが同時に「おう!」と返す。中でも一際大きな声を出したのは、ピッチャーの三木君だった。
マウンドの感触を足裏で何度か確かめた後、順平のサインに小さくうなずき返すと、一年生エースは大きく振りかぶった。
初球、内角低め。少しコース取りが甘いような気もしたが、それも順平のトラップだったのかも知れない。晴朗の打者は苦しい姿勢でバットを振ってしまい、一塁ゴロであえなく打ち取られた。
「ワンナウト! 良い調子良い調子!」
その後も三木君は好投を続けた。前に高校のブルペンで見たときよりもずっとフォームがよくなっている。早く鋭く正確な投球を、一年生エースは短期間でものにしていた。
「スリーアウトチェンジ!」
審判の宣言と共にベンチに戻っていく三木君の肩を、順平がミットでパンパンと叩く。中学時代と変わらない、上機嫌な時の彼の癖。
でも変わっていないのは癖だけだった。順平はあの頃よりもずっと体格が良くなっていて、同じくらい体格の良い野球部の仲間たちと共に、強豪校と互角の勝負を演じている――。
あの場所にぼくはいない。いたところでどうにかなる場所でも勿論ない。
ぼくはだから、一塁側スタンドのもっともマウンドに近い場所で、乾いた風を頬に受けながら東高野球部にエールを送った。
六回が終わっても、スコアは0対0のままだった。三木君のピッチングは文句の付け所がなく、順平のリードも相変わらず打者心理を逆手に取る巧みなものだった。打っても毎回ランナーを出すのは東高の方で、応援席には『ひょっとしていけるのでは』という空気が流れ始めていた。
しかし、強豪校はやはり強豪校だった。三木君を打ち崩すのが難しいと悟ると、打席に立ってはカットで投球数を稼ぎ、塁に出ては派手なリードで牽制球を誘い、三木君の消耗をさせる作戦にでた。
九回表。ついに三木君のスタミナに陰りが見え始めた。狙ったコースに球が集まらなくなってしまったのだ。四球。また四球。なんとか一人をショートゴロで打ち取ったものの、続くバッターに甘く入ったチェンジアップを打ち抜かれ、走者一掃の二塁打を許してしまう。
「やっぱりダメかー」「まー相手晴朗だし」
最終回にして二点のビハインドは、応援に駆けつけた東高生の心を挫くには充分すぎる点差だったようだ。
「九番、ピッチャー、三木君」
だが、二点のビハインドは東高ナインの心を挫くには不充分な点差だった。
まずは三木君が初球のカーブを狙い澄ませたスイングでレフト方向に運んで出塁。続く一番バッターは対照的にカットで粘りまくって四球をもぎ取った。二番バッター、三番バッターはアウトに取られたが、その間の走者が一つずつ進塁し、ツーアウト二、三塁。一打同点――どころか逆転さえありうるこの状況で迎えるバッターは、もちろんあの男だった。
「四番、キャッチャー、石渡君」
そのアナウンスで一塁側スタンドに熱が戻ってきた。東高音楽部がここぞとばかりにルパン三世のテーマを演奏する。
「がんばってー先輩!」「ワンちゃんあるでー!」「男を見せろ野球部!」
さっきまで帰り支度を始めていた連中が好き勝手なことを言う。ほら見ろ。順平だって苦笑いをしてるじゃないか。ぼくは心の中でブツクサ言いながら、音楽部の演奏が途切れるのを待った。
「「「かっ飛ばせ! いっしわったり!」」」
再びの静寂に、カキンという涼やかな金属音が重なった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます