4-10「畑の世話人」

 その週末。ぼくはスマートフォンからのけたたましい電子音で目を覚ました。


 あくびをかみ殺してスマートフォンを手に取ってから、アラームじゃないことに気づく。沢本からの着信だ。


「ばべ*!! ;べだ#+$の!!! &%ぐぎ”@!!」


 電波が悪い上に沢本が興奮しているので、何を言ってるのか全然わからない。ぼくは黙って通話をオフにすると、メッセンジャーアプリで『畑に行けば良いのか?』と問いかけた。


『そう!!』


 そうじゃないが。ため息ついでに壁時計を見ると、七時にもなっていなかった。


 それでも三十分で身支度を調ととのえて、母に『朝食前にちょっとサイクリングしてくる』と言い置いて、一路剣名川を目指すあたり、ぼくも沢本の理不尽さにかなり慣れてきてしまっているようだ。


 今日一日の暑さを予感させるじりじりとした日差しを受けながらペダルを漕ぐこと二十分。いつもの場所に自転車を止めて土手を降りていくと、河原の沢本もこちらに気がついて駆け寄ってきた。


「どうしたんだ、こんな朝っぱらから」


 沢本は質問に答える代わりに、むんずとぼくの腕を掴んだ。口元は無表情なのに、目を大きく見開き、両眉はへの字。でもって肩を小刻みに震わせている。いやこれどんな感情だよ。


「来て!」


「おい! 急に引っ張るな!」


「良いから!」


「良くねえ!」


 ぎゃあぎゃあ言いつつも沢本の瞬発的な力強さに負けてずるずると引きずられていったその先で――ぼくは見た。


「どう?」


 それは小さな楔のように土を穿ち――。


 それは異星のモニュメントのようにつるりとした緑色で――、


 それは逆立ちしたクリオネのように幻想的な――。

 

 


 あまりに小さいけれど、その先端で光っているものは紛れもなく針。そう。土喰いがついに発芽したのだ!


「これ一本だけじゃないのよ!」


 地面に膝をつけて小さな芽を見つめていたぼくの首を、沢本は容赦なく反対方向に曲げた。折れる折れる折れる。


「!」


 首の痛みが気になったのは一瞬だけだった。すぐに痛みを越える衝撃がぼくを襲ったからだ。負馬橋の南側。とりわけ日当たりの良い一帯に、たった今見たものと同じ針を持つ新芽が数限りなく生えているのを、ぼくの目ははっきりと捉えていた。


「生えた!」


「生えたのよ!!」


「すっごい生えた!」


「すっごい生えたのよ!!」


 およそ知性というものを感じさせないやり取りをしながら、ぼくらはいつしか手を取り合ってぴょんこぴょんこ飛び跳ねていた。


「「!!」」


 でもって自分たちがかなり恥ずかしいことをやっていることに気づいて、ばばっと後ろに飛び下がった。


 2メートル向こうの小顔が紅い。きっとぼくも同じ顔をしていることだろう。さすがにはしゃぎ過ぎたなと後悔していると、沢本がまたあの口元無表情&開眼への字眉になって、ずんずんとこちらに近づいてきた。だからどんな感情だ。


「恥ずかしくなんて、ない!」


「その顔むしろ怖いんだが」


「いいから手を貸す!」


 ぼくが言われるままに手を上げると、沢本は己が両手を思い切りたたきつけた!


「やったー!!! いえー!!!!!」


 これまで見た中で最高の笑顔。それでぼくは沢本のあの変顔が、こみ上げる歓喜を抑えるためのものであったと知る。


「さーあ、これからしばらく忙しくなるわよ! 芽が出たとなればやることはもりだくさんだからね! 深山も覚悟しときなさいよ!」


 ぼくは黙って肩をすくめる。沢本にはそれで充分伝わるはずだった。


 それからぼくらはささやかな祝勝会を開くことにした。場所は負馬橋の上。あそこは商店街が近くにあるからなのか、歩道がかなり広くつくってあって、真ん中らへんにベンチまで取り付けられているのだ。


「梅雨時の湿気すらも克服した暴君たちに乾杯」


「時々中二っぽいことを言う育ての親にも乾杯!」


「アンタにだけは絶対に言われたくないわよ!」


 乾杯よりも先に噛みつかれてしまった。比喩でなく。


 それからぼくらはベンチに腰掛け、ペットボトル飲料に口をつけて喉を潤した。ぼくがレモン水で、沢本はいつものジンジャーエール。橋の上を抜けていく川上からの風は気持ち良く、刻一刻と強くなる日差しすらもどこか心地よいものに感じられる。


「ここからでも目を細めれば見えるもんだな」


「あたしたちはね」


 沢本はそう言ってジンジャーエールをごくりとやる。でもって、ちょっと咳き込む。炭酸自体は苦手なのかもしれない。


「あたしたち以外にとっては存在することすら知らない塵芥ちりあくたのようなものよ」


「今のところは、だろ?」


 ぼくが問いかけると、沢本は我が意を得たりとばかりににやりと笑った。


「まあね」


 この破壊的な日差しがきっと彼らをより大きく、より厄介な存在に育ててくれるいに違いない。そう思っているのは、ぼくだけではないはずだ。


「そう言えば、サボテンの花が咲くのはいつ頃なんだ?」


「意外なことを聞くわね」


 別に意外でもないと思うが、沢本は何故か虚を突かれたような表情を浮かべた。


「……順調に育てば年が明けて少し寒さが緩んだ頃には咲くはずよ。桜が咲く頃までに花が開かなければ次の年までお預けだけど」


「何となく受験のことを思い出して鬱になるな」


「安心しなさい。忙しくても、勉強の時間はしっかり作ったげるから」


「ふぇい……」


 がっくしとうなだれながら、ぼくは欄干の向こうにある今は塵芥も同然の新芽たちを見やる。冬の終わりに咲く花は一体どんな色、どんな形をしているのだろう。沢本に尋ねればすぐに教えてくれるだろうに、ぼくはその疑問を自分の中で温めておくことにした。どうせなら、自分の目で確かめてみたいと思ったのだ、


 と、ふいにぼくのスマートフォンがバッグの中でけたたましい音を立て始めた。今朝ぼくを叩き起こしたのと同じ音だ。ぼくは沢本に「悪い」と一声掛けてから、スマートフォンを手に取った。


「樹、今大丈夫か?」


 誰からの着信か確かめずに取ったけど、声でわかった。順平だ。少し雑音が混じるのは、彼が人通りがあるところにいるからだろう。


「うん。大丈夫。どうした?」


「ついさっき県大会の組み合わせが決まったんだ」


「そういや今週末に抽選会と言ってたっけ。にしても早くないか。まだ九時だぞ」


「集まってクジ引くだけならそう時間はかからんさ」


「九時からクジ引きってか」


 沢本がぶほっと咳き込んでから憤怒の表情で睨みつけてきたので、本題について尋ねることにする。


「それで、初戦の相手は?」


「晴朗学園」


「……いきなりの強豪校だな」


 野球のスポーツ推薦もある私学だ。甲子園に出場したことも一度や二度ではなかったと記憶している。


「クジ運の悪さを嘆いても仕方がない。決まった以上は全力を尽くすのみだ」


 順平はむしろ淡々と己の決意を語った。


「頑張れよ」


 ぼくに言えることはだから、これだけだった。


「そう言ってくれるんなら、またキャッチボールに付き合ってもらえると助かるな。できれば大会前に一度」


「良いよ。そっちの都合がつく日を教えてくれ」


「また連絡する」


 それで通話は終わった。ぼくはスマートフォンをポケットにしまい直して、渇いた喉を潤そうとレモン水に口をつけたところで、沢本がじっとこちらを見ていることに気がついた。


「どうした?」


 さっきのダジャレのことはもう怒っていない風だが、さて。


「今の誰?」


 なんだそんなことか。


「リトルリーグ時代の相棒だよ。今は東高野球部のキャプテンでね。県大会の対戦相手が決まったんだとさ」


「ふーん」


「珍しいな。沢本が人のことを気にするなんて」


「別に。深山みたいに友達すく――選びそうなヤツがここまで心を許す相手ってどんななんだろうって思っただけ」


「今完全に友達少ないって言いかけてたよな」


「良い意味で、もちろん良い意味でよ」


 なんだよ良い意味って。と言い返すよりも先に、沢本が「あはは」と笑い出したので、ぼくもつられて笑い出してしまう。じりじりと背中を焦がす太陽と、ぬるくなりはじめたレモン水、それから、少ないとは言えゼロではない友人――ぼくらの夏は、もうすぐそこまで来ているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る