4-9「シチュー」

 家に戻る頃には六時を回っていた。


 沢本に借りたレインコートのおかげで、頭と胴体は濡れずに済んだけど、四十分近く歩いたこともあって、袖からはみ出た肘下膝下がすっかり冷え切っている。


 玄関先でレインコートを脱いでいると、母がバタバタと走り寄ってきて「あんた! こんな雨の日なんだから、学校が終わったら迎えに来てって連絡しなさいよ!」と怒鳴りながらバスタオルを投げつけてきた。


 日中は近所の雑貨屋で働いていて、家に帰れば主婦業で忙しい人に迎えまで頼むわけにはいかないでしょ。と、口に出して言ったらますます怒られそうなので「友達がレインコートを貸してくれたんだ」とだけ言って、バスタオルで髪をかき回すことにする。


「友達ぃ?」


 そう言って母の背中から愚妹が飛び出てくる。でもって、傘立ての上に広げたレインコートを手に取って「レインコートちっさ! さては女ね! 女なのね! かわいい妹にも紹介しろー!!」


「可愛くないので紹介しない」


「グエー!!」


 とても可愛いを僭称するJCの悲鳴じゃないと思うが、これ以上付き合うのも面倒くさいのでスルーしよう。


「友達の家でシャワーを借りてきたから、お風呂は後にする。とりあえず着替えてくるんで、終わったらご飯の支度を手伝うよ」


「はいはい。こっちに気なんて使わなくていいから、ちょっと部屋で休んできなさい。シチューができたら起こしてあげるから」


 夕食の手伝いは日課なので別段気を使っているつもりはないのだが。


「いいわね?」


 母がさっきよりも強い口調で念押しした。こういうときの母には逆らわない方がいいことを、ぼくは経験的に知っている。


「って待って、女子んでシャワー?!」


 早くも復活した愚妹がまた愚かなことを言い始めたので、ぼくは母に「休んでくる」と言い置いて、さっさと自分の部屋に向かうことにした。


「確かにちょっと疲れたかもな」


 鞄を置いて、部屋着に着替えて、ベッドに腰を下ろした後で、ぼくは思い出したようにひとりごちた。このまま横になったら、すぐに上下の瞼がくっついてしまいそうだった。


 ――でもその前に、だ。


 ぼくはスマートフォンを手に取って、画面をタップする。でもって、母から三度も着信が入っていたことに今更気づいて心の中で平謝りしつつ、メッセンジャーアプリを立ち上げる。


『無事帰った』


 小さなサボテンの画像をアイコンにしたアカウント宛にそう送ると、二秒と待たずに返事が来た。


『そう』


 素っ気ない返事だが、このレスポンスの速さで大体のことは想像できてしまう。なんだか肩の荷が下りた気がして、ぼくはぱったりとベッドに寝転がった。まぶたを閉じると、ほっとした表情でスマートフォンを見つめる沢本の姿が脳裏に浮かんだ。


 夢の世界の扉が開くまで、さして時間はかからなかった。

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