4-8「お母さん子」
「……結構育ってるな」
ぼくは膝を曲げて、近くにあった鉢を見やりながら言った。太い茎に攻撃的な太い針をびっしりと身にまとわせたそれは間違いなく土喰いだった。
「その辺は一昨年植えたやつだから。むしろ剪定しまくってなんとか鉢に収まるようにしたくらいよ。こいつら、油断すると鉢を割る勢いで大きくなるから」
「二年でそんなに?」
「三年もすればほとんど木よ」
想像よりもずっと化け物だ。ぼくは背中に冷や汗が伝うのを感じながら、改めて鉢植えのサボテンをみやる。がっしりとした筒状の茎には、強い生命力を感じる反面、見る者を不安にさせる何かを孕んでいるような気がする。
「今年植えたやつはあるのか?」
「もちろんよ。品種改悪に終わりはないの」
沢本は部屋の南側に並んだ鉢の一つを手に取ってぼくに見せてくれた。
「もう芽が出てる」
「室内は環境が良いからね」
そう言って、はぁとため息をつく。今年の種が発芽したこと自体は喜ばしいのだろうが、河原に撒いた種は一向に芽吹かないのだから、環境テロリストとしては複雑な心境にもなってしまうのだろう。
「……品種改悪はどれくらい続けてるんだ?」
まだ豆粒のような土喰いを見つめたままぼくが尋ねると、沢本は小さくかぶりを振って「わからない」と言った。
「どういうこと?」
答える代わりに、沢本は部屋の隅のキャビネットから一冊の大学ノートを取り出してきた。見るからに年季の入った冊子には『Opuntia Mars 亜種の生育と交配についての備忘録』とある。
「土喰いの品種改悪は――いいえ。あたしの復讐計画は、元々お母さんがやっていたことなのよ」
沢本に手渡されたノートをパラパラめくると、サボテンのスケッチとともに、肥料のやり方や適切な水の量、交配の仕方などの手順が示されていた。
ページの端に一々『何年何月何日の観察日誌を参照せよ』だとか『日本育種学会の学会誌の何巻何ページを見よ』といったメモを残しているあたり沢本のお母さんはかなり几帳面な性格だったようだ。
「八年くらい前までの記録は確認できたんだけど、交配自体はもっと前からやってたみたいなのよね」
そんなに前からやっていたのか。いや。今突っ込むべきはそこじゃない。
「どうして沢本のお母さんは品種改悪をはじめたんだ?」
現在進行形で侵略型外来種による環境破壊の片棒を担いているぼくが言うことではないのかもしれないけど、まともな大人がやることではない。
「長くなってもいいなら話すけど」
沢本はどこか憂鬱そうな声で言った。
「聞いて差し支えないなら聞きたいけど?」
すぐにぼくが言い返すと、沢本は呆れたように「変なやつ」と言ってから、ふっと微笑んだ。それから沢本は部屋の隅にほんの少しだけ残っていた床が見えるスペースまでけんけん飛びで移動して座り込むと、床板をぽんぽんと叩いた。こっちに来て座れということらしい。
ぼくはうっかりサボテンを踏み抜かないように気を付けながら沢本の隣まで行き、腰を下ろす。案の定、めちゃくちゃ狭い。ちょっとしたことで肩やら肘やら膝やらが当たってこそばゆいし、洗ったばかりの沢本の髪がなんだかとっても良い匂いだし、うっかり沢本の方を見てしまうと無防備な襟元が視界に飛び込んでくるしで、落ち着かないことこの上ない。
「見て」
どきりとするようなことを言う沢本だが、その指先は目の前の鉢植えに向いている。なんだ、そっちか。
「これだけ、他のとちょっと違うでしょ?」
言われてみればその通りだった。大きさはサッカーボールぐらい。針はあまり太くなく、歪みや瘤がほとんど見られない、ほとんど真球に近い形状をしている。なんというか――。
「あんまり土喰いらしくないな」
見た目もそうだが、何より土喰いの個性とでも言うべきあの貪欲なまでの生命力をまるで感じないのだ。
「でしょうね。これは学生時代のお母さんの研究成果なの。ルーツこそ一緒だけど、土喰いとは見た目から何から全然別物よ」
思わず眉が動いてしまったのは『学生時代のお母さん』という言葉に反応してのことだった。藤見原市には農業高校がある。そこの出身なのだろうか。
「意外に思うかもだけど、あたしのお母さんは、県大の農学部出身で、専門は育種学。つまり、作物の品種改良だったの」
ぼくの心の内を見透かしたようにそう言って、沢本は皮肉っぽく、けれどどこか誇らしげに笑った。
「ひょっとして秋田川さんと沢本のお母さんは大学の同期生だったのか?」
「察しがいいわね。そういうこと。学科は別だったみたいだけど」
――遥の母親とは、学生時代からの付き合いでね。
秋田川さんにそう言われたときは、何となく中学か高校のときのことだと思ってしまったけど、そうではなかったらしい。と言うか、県大の農学部って地方の大学にしてはかなり偏差値高かったよな。若かりし頃の雪乃さんと秋田川さんは、ぼくよりもずっと頭が良かったようだ。
「お母さんは大学の研究室で、有害な外来種をより無害な品種に変える研究に取り組んでいたの。これはその成果のひとつというわけ」
「有害な外来種をより無害な品種に変える……今の土喰いとは真逆の発想だ」
「そうそう。さして大きくならず、さして土壌を荒らさず、しかも自然交配がほとんど生じない脆弱な土喰い亜種。こいつはそういうものを目指して作られたものなの」
「それで何年たっても木にはならないというわけか」
さっきの言葉を引き合いに出してぼくが言うと、沢本はくすぐったそうに笑った。
「……娘のあたしが言うのも何だけど、秋田川さんの話では結構優秀な研究者だったみたいよ。もう少し大学で研究を続けられていたら、これを使って土喰いの繁殖を面的に抑制する実証実験なんかもやれたんじゃないかって。でも、残念ながらそうはならなかった」
「何があったんだ?」
「在学中にお父さんと学生結婚してね。すぐにあたしを妊娠したのよ」
沢本が特に何の感情も込めずにそう言ったので、ぼくは全力で眉間に皺を寄せてしまった。
「どうしたの?」
「何でもない」
自分の生誕にまつわるエピソードを『残念なこと』と言って、少しも傷つくことのない少女に対して言える言葉を、ぼくは持ち合わせていない。
「あそう」
ぼくの心の内を知ってか知らずか、沢本は目の前のサボテン球の、針が出ていない部分を軽く指で突いた。
「教授からは休学を勧められたりもしたみたいだけど、結局、両立は難しいだろうということで、修士号を目前にして退学することにしたそうよ。さっぱりしてるというか、あっさりしてるというか、昔からこういう判断は速かったみたい。もっとも、退学した後も大学に潜り込んで講義を聴いたり、学内の設備をこっそり使ったりしていたみたいだけど」
「割とアカデミックかつタフな人だったんだね」
意外と言えば意外だが、沢本の母親としては納得感がある。
「どうかな。時々だけど勉強を教えてくれたときは、担任の先生よりわかりやすかったし、頭は良かったのかもね。そのくせ、夜中に化粧もしないで部屋着で出かけて、買ってきたカップラーメンをベランダで食べるようなところもあったけど」
「何でベランダで?」
「あたしに見つかりたくなかったんだって」
割とアカデミックかつタフかつシャイな人だったらしい。
「ちなみにお父さんはどんな人だったの?」
秋田川さんは『十年以上も前に交通事故で亡くなってる』と言っていたが、詳しいことは知らないし、沢本から見た父親の印象というものを聞いてみたくもあった。
「正直よく覚えてないのよね。お母さんと同じ学部の四年先輩で生物科学を専攻してたとか、博士課程の二年目でお母さんと結婚して、博士号取得後はそのまま大学に残って研究を続けたとか、経歴ならわかるけど」
「お母さんに負けず劣らずで頭の良さそうな経歴だな」
「そのお母さんによれば『頭の回転が滑らかなのは認めるけど時々まぁまぁ浅はかだった』そうだけどね」
「なんだそりゃ」
「わかんない。もしかしたら亡くなったときのことを言っていたのかも」
そう前置きして沢本が簡潔に語ったところによると、彼女の父親が亡くなったのは正確には十一年前の冬。学会発表のため隣県の大学に出張した帰りに奇禍に遭ったのだという。
「遭ったというか、ブレーキとアクセルを踏み間違っての単独事故だから、ほとんど自殺……ううん、自爆みたいなものだけどね」
「事故なことは間違いないのか」
「高速のインターチェンジ手前で分岐点に衝突しただけだからね。かなり飛ばしてたらしいけど、同乗者もいなかったわけだし、単独死亡事故で間違いないと思う」
早く家族に会いたい一心で急ぎすぎた結果、車の操作を誤って……といったところか。沢本のお母さんが『時々まぁまぁ浅はか』と恨み言めいた評価を下してしまう気持ちもわからなくはない。
「ともかくお父さんが急に亡くなって、お母さんは働かなくちゃいけなくなったわけ。でも、いくら研究室の教授に買われていた言っても、世間的には大学をドロップアウトしたシングルマザーでしかない。なかなか良い仕事が見つからなくて、結局お母さんは、前に住んでたマンションを処分して、この街で夜の仕事をして生計を立てることに決めたのよ」
沢本が小さく唇を噛んだのを見て、ぼくは思わず右の掌を強く握り込む。大学院まで進学した沢本のお母さんが、どうして接待飲食店で働いていたのか――そしてそのことが沢本親子にとって決して本意ではなかったことが、理解できたからだ。
「こんな田舎だからさ。あたしだって、お母さんの仕事のことであれこれ言われるのはしょっちゅうだったけど、本人はもっと辛かったと思うんだよね」
さらりと言うが、沢本だってしんどかったはずだ。沢本のお母さんがキャバクラで働いているという話はハンマーキラーの事件の前から結構有名だったし、そのことであからさまに沢本と距離を置こうとする女子もいれば、妙な同情心を持って接しようとする女子もいた。男子どもの中にも『沢本も親から色々伝授してもらってんのかな』などと言い合って下卑た笑みを交わすような最低な奴らが確かにいたのだ。職業に貴賎なしと言うだけなら簡単だが、現実はこんなものだと、沢本はずっとわからせられてきたのだと思う。
その沢本が、あくまで自分の母親のことについてだけ、こう言うのだ。
「あたしには明るい顔しか見せない人だったけどさ。内心しんどいって思うときもあったんじゃないかな。それか、こんな街、くそ食らえって」
「それが沢本のお母さんが学生時代とは真逆の研究を始めた理由?」
「全部あたしの想像だけどね。あたしがお母さんの備忘録を見つけたのは、お母さんが亡くなった後のことだから。でも、見て――」
沢本はそう言って、さっき見せてくれた大学ノートの最後のページを開いてみせる。
――あと二、三年品種改悪を続ければ土喰いは強い耐水性を得るだろう。しかし、このタイミングで私はこの復讐計画を凍結することに決めた。こんなことをしても意味はない、もっと他にやるべきことがあったということに今さらながら気がついたからだ。いや、そうではない。ずっと前から気づいてはいたのだ。品種改悪がうまくいく見通しが立ったことで、ようやく自分自身と向き合える覚悟ができたのだろう。
とは言え、この意味なき品種改悪、この無駄としか言いようのない回り道に、少しも心が躍らなかったと言えば嘘になる。学生時代に寝食を忘れて研究に没頭していた時期と同じか、あるいはそれ以上の高揚があったことは否定できないだろう。
私はこの復讐計画を卒業するけれど、私の高揚の記録としてこの備忘録を残しておくことにする。さようなら、また会う日まで。
20XX年6月某日 沢本雪乃――
「三年前の日付だ」
「そう。お母さんはハンマーキラーに殺される直前まで、品種改悪を続けていたのよ」
「ここで?」
「ううん。大学の施設でこっそりやっていたのよ。だからあたしはお母さんが土喰いを栽培していること自体、知らなかった」
「ああ、お母さんが亡くなった後でこの備忘録を見つけたって話だったな」
「遺品整理をしている時にね。びっくりしたわよ。まさかお母さんがこんな厄介な復讐計画を考えていて、あと少しで実現というところまで進めていたなんて思いもしなかったから」
「そりゃあそうだろうなあ」
ともあれ沢本は、大学のゼミに事の次第を――もちろん復讐計画云々は伏せた上で――説明し、雪乃さんが試験農場の隅で密かに育てていた改悪版の土喰いとその種子を引き取ったのだという。無断で使用していたから怒られるかと思いきや、退官まであと一年に迫った老教授は沢本雪乃の娘を名乗る中学生をお茶まで出して歓待し『雪乃さん、未だに来てくれてたのか』『こそこそしなくても私に相談してくれればもっと自由にあれこれ使わせてやれたのになあ』と言いながら、快く遺品の返却に応じてくれたそうだ。
「お母さんは復讐計画を凍結することに決めたみたいだけどさ」
沢本はぱたんと気持ちよくノートを閉じて、言う。
「あたしは見てみたいの。お母さんの計画で、この街の景色がどんな風に変わるのかを。そして、土喰いが人間様の都合なんてお構いなしでそこら中に生えまくったクソみたいな景色を目の当たりにした人々が見せるであろう被害者面をね」
唇の端がうっすらと上がっている。沢本は静かに笑っていた。しかしそれは、怒りと同質の笑みでもあった。
「それが沢本の動機ってことか」
「軽蔑した?」
「……止めるべきなんだろうな。理性では、そう考えている」
少し考えてから、ぼくは起伏のない声でそう言った。
「でも、止めないんだ」
「そうだね」
今度は即答した。視線の先で、沢本のお母さんが作った丸いサボテンが弱々しく佇んでいる。
「そういうことになる」
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