2-8「牛の首輪」
「なかなか難しい娘だろう?」
四阿の外で、尊厳を傷つけられた肩や背中をパタパタと払っていると、秋田川さんが隣にやって来て、話しかけてきた。
「ええ、まぁ。でも、黒須中学に転校してきた頃からあんな感じでしたし」
「なんだ。
「クラスが同じだったのは一年のときだけですがね」
「しかし驚きだな」
「何がです?」
「あの娘にお前さんみたいな友達がいたってことがさ」
「向こうがぼくのことをそう思っているかどうかはわかりませんよ」
「なるほど。お前さんも友達が少なそうだ」
ひどいことを言って、がははと笑う。沢本やぼくとは違う陽の世界の住人だが、あまり苦手意識は感じない。どこか野球馬鹿の同級生と同じ臭いがする。
「……同中なら、あの娘の母親の事件のことは知っているんだよな?」
続いて秋田川さんは、沢本が走り去っていった方を見やってから、幾分声を潜めて言った。
「当時はその話で持ちきりでしたから」
鼓動が少しだけ早くなるのを感じながら、努めて平静を装った声で答える。
「そうか。そりゃまぁ、そうだよな」
秋田川さんはぼりぼりと頭を掻いてから、雲一つない空を見上げる。
「雪乃――遥の母親とは学生時代からの付き合いでね。お互い結婚してからもちょくちょく会っていたんだ。遥のことだって、私の両手にすっぽり収まるくらいの頃から知っているんだぜ?」
どうやら沢本は幼少の頃からコンパクトサイズだったらしい。
「その頃から難しい娘だったんですか?」
「いーや。生まれたてのジャージー種みたいに可愛らしーい娘だったぞ。一度、『たかいたかい』をしたら、ギャン泣きされたことがあった。雪乃にもめちゃくちゃ怒られた」
思わずぷっと吹き出してしまう。筋骨たくましい身長百八十センチの女性に持ち上げられるのは、幼児期の沢本にとってはさぞかし怖い体験だったことだろう。
「それ、本人に言うと機嫌悪くなりません?」
「なる。でもって、目が怖くなる」
「沢本らしいですね」
記憶にも残っていない幼児期の出来事を語られるのはあまり気分の良いことではないが、そういうのを苦笑いでやり過ごすのも、ぼくらくらいの若輩者には必要な処世術だ。でも、沢本は怒る。凄む。大人の話法を受け入れることよりも抵抗することを選ぶ。そんな沢本のことをぼくは、半ば困ったやつだなあと思いつつ、半ば好ましいと思ってしまう。多分、秋田川さんもそうなのだろう。
「だからまぁ、あの事件は私にとってもショックだったよ。長年の友人を失ったことだけじゃない。一人残された雪乃の娘がどうやって生きていくのか、心配でならなかった」
「……父親はどうしてるんですか?」
沢本家が母子家庭だということは知っていたが、どういう理由で父親がいないのかまでは聞いたことがなかった。
「知らないのか。雪乃の旦那は十年以上も前に交通事故で亡くなってるんだ」
「待ってくださいよ。それじゃあ沢本は今も一人で暮らしているんですか?」
「雪乃と二人で暮らしていた賃貸マンションでな。書類上は母方の伯母さんが保護者ということにはなっているらしいが」
「いやでもそれは……」
まだ高校を卒業してもいない未成年が、大人の力も借りず、ずっと一人でマンション暮らしをしているというのはどうなんだろう。余計なお世話だとはわかっていても、沢本のことが心配になってしまう。
「私だって良いことだとは思わないさ。でも、本人がそれ以外の道を望まないのであればどうしようもないのさ。所詮は、母親の友人。他人だからな」
淡々と語る秋田川さんだが、その横顔は寂しそうだった。多分、沢本本人に何度か水を向けたことがあったのだろう。
「沢本がここに来るようになったのらいつからなんですか?」
「今年の初め頃かな。久々に連絡してきたと思えば、バカ丁寧な新年の挨拶の後で『秋田川さんのところの堆肥が欲しい』とか言い出してな。ちょっとぐらいなら持っていっていいぞ、と返したら『ちょっとどころじゃないので牧場で働かせてください』などと言いやがる。仕方がないから牛舎の掃除とバーターで堆肥をやるってことにした。すぐにギブアップすると思ったんだが……続くもんだなあ。さすがは雪乃の一人娘だ」
「……秋田川さんは沢本が何をやっているのかは知っているんですか?」
「知らないと言ったら嘘になるな。でもまぁ本人は私に事情を話すつもりはないようだ。遥はここで働く。私は対価として堆肥を譲る。そういうビジネスライクな関係でいきたいってことなんだろう。あの娘がそう望むなら、私は何も聞かない。今のところはそれで良いと思っている」
どこか偽悪的にも聞こえる言い方だが、秋田川さんが秋田川さんなりのやり方で沢本を気遣っていることは察せられた。
「案外優しいんですね」
「んなこたーない。案外冷たいんだ。私は」
ぶっきらぼうにそう言ってから、秋田川さんはぼくの方に向き直った。
「まだ下の名前を聞いてなかったな」
「樹です。深山樹」
「タツキか。良い名前だ。響きが良い」
秋田川さんそう言って、がははと特徴的な笑い声を上げてから、すっと表情を引き締めた。
「遥のこと、よろしくな。頭は良いんだが、ムルシアンのように扱いが難しい娘でな。今後もし、あの娘が道を踏み外しそうになったら――タツキ、お前さんの手で止めてやって欲しい」
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