2-7「堆肥」

 牛床の掃除はなかなかの重労働だった。まず、粘土状になったウンコが重い。人並みに体力はあるつもりだが、シャベルにめいいっぱい乗せると、腕がぷるぷるしてくる。


 粘土状になったウンコの滑りやすさも問題だった。履き慣れていない長靴では踏ん張りが効きにくいこともあって、危うく転び掛けたのは一度や二度ではない。本当に危うかった!


 そして臭い。掃除に入る前に沢本は『若い仔たちのだからそこまで臭くない』と言っていたが、あくまでそれは成牛との相対評価であって、絶対評価としては当然臭いのである。


「まったく、バンビみたいな顔をして、出すモンは出してるんだなぁ」


 まだときの形状が保たれている新鮮なやつフレッシュネスダークマターをシャベルですくいながら、ぼくは呟くように言った。


「あったり前じゃない。可愛かろうがなんだろうが生き物なんだから」


「そりゃそうだけど」


「それよりシャベルを使うときはもう少し膝を落とした方が良いと思う。猫背だと腰を痛めるわよ」


 沢本は時々しかアドバイスをくれなかったが、くれるアドバイスそのものは一々的確だった。もちろん人にあれこれ言うだけではない。立ち込める臭いにも、飛び散るウンコにも怯むことなく、例の物騒な掛け声と共にシャベルを突き立てては、掘り出したものを一輪車のバケットに移していく。手慣れたものだ。


 正直にいうとぼくは、そんな沢本の姿を美しい、と思った。顔にウンコがついているとしても。


「……負けるわけにはいかないな。リトルリーグの元エースとしては」


「投擲能力はあんまり関係ないと思うけど」


 独り言のつもりだったが、バッチリ聞こえていたらしい。


「体力仕事で遅れを取りたくないってことだよ」


「ふーん。なら、お手並み拝見といきましょうか」


 そう言ってから、沢本は少しだけ作業のペースを上げたようだった。やれやれ。そこで対抗意識を燃やすかね。まぁ、勝ちを譲ってやるつもりはないけどな。


 そんなわけでぼくと沢本は競い合って掃除に取り組んだ。昼下がりの日差しに晒された牛舎は、床の湿気も相まって、蒸し風呂のような暑さである。そんな中でムキになってシャベルを振り回せばどうなるか。少し考えればわかりそうなものだが、そのときは少しも考えなかったのだ。ぼくも、多分、沢本も。


 一時間後。ぼくと沢本は牛舎の壁によりかかってぜいぜいと肩で息をしていた。


「……午前中に飲んだ水分が全部抜けたような気がする」


「あたしの失策ね。もう一本ずつ買っておくべきだった」


 沢本に至っては、立ってるのもしんどいらしく膝をまげてぐったりしている。尻を床につけることまではしていないが、膝小僧に顔を埋めているので、ポニーテールが床スレスレの位置に来てしまっている。


「立てるか、沢本」


 入念に掃除したつもりではあるが、細かいものまでは取りきれず床に残ってしまっている。沢本の綺麗な髪にウンコがつくのは見るに忍びなかった。


「立てる……」


 顔を上げずに――かえって強く膝に顔を押し付けて応じる沢本。ポニーテールがいよいよ床に接触しそうになって、ぼくは内心どきりとした。


「休むなら外で休もう。ほら、手を貸してやる」


 少し強い口調で言うと、沢本は案外素直に腕を掴んできた。本当に疲れ切っているようだ。こんな軽い体で、限界ギリギリまで頑張るからだぞ、とは心の中でだけ呟くことにする。


 沢本を立たせてのろのろした足取りで歩き始めたところで「おーい」と大きな声が聞こえてきた。秋田川さんだ。ぼくらは繋いだ手と手を離しつつ、牧場主の登場を待った。


「ずいぶんと綺麗になったじゃないか。二人ともよく頑張ったな!」


 入ってくるなり、秋田川さんは満足そうに笑って言った。


「今日のところはこれで充分だ。冷たいものを用意してあるから飲んでいってくれ」


「秋田川さん!」


 沢本の顔がぱっと明るくなった。


「助かります」


 ぼくも心の底からそう言って、頭を下げた。


「気にすんなって。んなことより手洗いだ手洗い」


 手洗い場には沢本が案内してくれた。生まれてこの方ここまで真剣にやったことはないだろうというくらい念入りに手を洗ったことは言うまでもない。


 それからぼくらは牛舎のすぐ近くにある四阿あずまやへと向かった。基底部をコンクリートで固めた四本の支柱に板葺きの屋根と、どこにでもあるようなデザインだがよく見ると作りが荒い。多分自作だ。きっと中においてある一枚板の長机もそうなのだろう。


「よーし、来たな」


 ぼくらが切り株の椅子に腰掛けると、秋田川さんは長机の上にドン、ドン、とジョッキサイズの大きなコップを置いた。中身は真っ白い液体。見た感じさらっとしているので牛乳ではなさそうだ。これでもかというくらい大量の氷が放り込まれている。


「たっぷりあるから遠慮なんかするんじゃないぞ!」


 秋田川さんはそう言って、机の上にあったアルマイトのやかんを景気よく叩く。こういう人には躊躇する方が失礼だということは、ぼくも沢本もよく理解していた。


「「いただきます!」」


 早速コップに口をつける。冷たく、そして甘い。この味は暑い日にあると嬉しいあの乳酸菌飲料のものだ。しかも、かなり濃く作ってある。


 んくっんくっんくっ。


 気づけば夢中になって飲んでいた。キンキンに冷やしたカルピスがこれほど旨いものだとは知らなかった。英語圏の人々には牛の尿Cow Pissと聞こえるとかいう与太話は忘れよう。絶対にだ。


「「おかわりお願いします!」」


 ぼくと沢本は同時にコップの中を空にして、同時に叫んだ。


「おうよ!」


 二人で計六杯飲み干したところで、ヤカンの中身が氷だけになった。よし、なんだかやり遂げた気分。


「シャワー室も使える状態になっているから、少し休んだら順番に入ってくると良い」


「お先にどうぞ」「深山こそ」「何なら二人で一緒に入っても良いんだぞ?」


「「遠慮しておきます」」 


 同時に言って、同時にむすーと息を吐き出す。秋田川さんも安易にそういうことを言わないで欲しい。


「先行ってよ。深山は助っ人なんだから」


 これは意地の張り合いになりそうだ。そう思った後で、ぼくはふと、沢本の顔に妙案の種を見つけだす。


「ほっぺたのウンコが乾き始めているのでなければそれもありだと思うけど?」


 沢本は軽く自分の頬を撫でてから、履いているゴム長靴よりも渋い顔をした。


「深山だって肩とか背中にいっぱいウンコついてるんだからね!!」


 捨て台詞のように叫んで、走り去っていく。やれやれ。ぼくは秋田川さんに向かって肩をすくめてみせてから、ウンコまみれでそんなことをしてもサマにはならないなと自嘲したりもする。

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