2-9「隣り合わせた人」
「お待たせ」
沢本が戻ってきた。急いで出てきたのだろう。ラフに束ねたポニーテールがまだしっとりしている。
「用意できてる? 案内するからついてきて」
「わかった」
ぼくは秋田川さんに「お借りします」と声を掛けてから、沢本の小さな背中を追いかけた。
「秋田川さん、何か言ってた?」
ぼくが追いつくと、沢本は探るように尋ねてきた。
「大したことは話してないよ」
さすがに秋田川さんから頼まれたことを本人に伝えるわけにもいくまい。ぼくは当たり障りのないことを言って追求を躱すことにする。
「……大したことない話って?」
踏み込んできやがった。
「幼少期の沢本がとても可愛い女の子だったとか」
「何それ」
沢本の声が殺気を帯びたので、ぼくは慌てて次の手を打つ。
「ああ、あと、沢本のことを根性があるって褒めていたよ」
これは不意打ちだったらしく、沢本はふいとそっぽを向いてしまった。
「あっそ。くだらない話ばかりしてたようね」
「だから大したことは話してないって言っただろ……」
沢本の追求が止んだことに内心ほっとしつつ、ぼくはさりげなく沢本の後頭部に視線を向ける。ポニーテールの良いところは、うなじのラインが見えること。それから、褒められなれてない旧友が耳たぶを赤くしているのにすぐ気づけることだろう。
「で、あれがシャワー室か」
「そう。あれがシャワー室よ」
壁もなく屋根もなくシャワー水栓の柱があるだけのタイル張りのスペースを『室』と呼ぶのだろうか。あと、全体的に施工が雑。どう見ても秋田川さんの作品です。本当にありがとうございました。
「何でも作っちゃうんだな、あの人」
「どうせ作るならせめて壁ぐらいはつけて欲しかったんだけどね……」
「全くだ」
一応のこと竹で組んだパーティションがいくつも置いてあるので、あれを使って体を隠せということなのだろうが、見るからにディフェンス力低そうな作りである。
「まあ、ちょっと開放的な露天温泉みたいなものだと思って諦めて。あたしは諦めた」
「温泉は諦めの境地で入るものじゃないと思うけどなあ」
「タオルは脱衣かごの中に入ってるやつを使って。あと、シャワーの勢いが強いから、栓を開けるときはなるべくそっと開けることを勧めるわ。でないと、今日一大きい悲鳴を上げることになる」
「……それって沢本の体験談?」
「う、うるさいわね。人の善意は素直に受け取るものよ」
遠回しにぼくの質問を肯定して、沢本はふんと盛大に鼻を鳴らした。
「そうだな。忠告ありがとう。じゃあ、行ってくる」
沢本の足音が遠ざかっていくのに耳を澄ませながら、ぼくはパーティションの中で衣服を脱いでいく。下着が汗を吸ってかなり重たくなっている。こんなことならシャツだけでも替えを用意しておくべきだったな。
そんなことを考えながらシャワーの水栓を捻り――
とにもかくにもウルトラ水流で汗やら糞尿やらを押し流し、服を着直して四阿に戻ってくると、秋田川さんがニヤニヤして待っていた。
「強過ぎたか? 水の勢い強過ぎたか?」
おのれ確信犯め(誤用)。
「だから言ったんじゃない」
秋田川さんの隣で沢本が冷ややかにいう。一応気をつけてはいたんだけどなあ。
「私の愛車、NSR50のアクセル応答を参考に調整したからな! 事前に忠告されたからと言って、初見で回避できるやつはなかなかいないと思うぜ!」
サイコパスかな?
「牛舎と一緒の配管だから、どうしても水圧を弱くできないのよ」
「あ、そういうこと」
良かった。サイコパスじゃなかった。
「まぁ今日は遥の友達の歓迎も兼ねて、いつもより二割増しで感度を強くしておいたがな!」
やっぱりサイコパスだった!
「……次は避けますから」
ぼくが半ば呆れつつリベンジを誓うと、秋田川さんはからからと笑って「おう、頼むぜ」と応じて牛舎に戻っていった。
「で、この後はどうするんだ沢本――沢本?」
思わず繰り返してしまったのは、沢本が目を丸くしてぼくのことを見つめていたからだ。
「どうした?」
また何か地雷を踏んでしまったのだろうかと密かに身構えつつ尋ねると、沢本ははっと我に返って「ううん、何でもない」と言った。
「今日の作業はこれで終わりよ。あたしたちも帰りましょう」
表情筋ECOモードに移行しつつ荷物をまとめ始める沢本。うーん、何でもなくはなさそうなんだけどなぁ。
ともあれ牧場を出て、土手に上がる。
再び吹き付ける強い風は、冷水のシャワーを浴びて体温が下がったせいだろうか。往路よりもひんやりしているようだった。
「なかなかファンキーな人でしょ」
「秋田川さん?」
ぼくが聞き返すと、沢本は無言でこくりとうなずいた。
「悪い人じゃなさそうだけどね」
ぼくが言うと、沢本は「そりゃそうだけど」と言って髪をかき上げた。
「秋田川さんはあたしのお母さんの友達なのよ」
「知ってる。さっき本人から聞いた」
「……やっぱりそういう話もしてたんじゃない」
あ、しまった。
「別に怒っていないから大丈夫よ。あたしの幼少期を話題にしてたって聞いた時点でわかってたことだし」
沢本はそう言って小さく息を吐き出すと、剣名川に視線を向けた。
「陽キャを通り越して二、三本ネジがはじけ飛んじゃってる人だけど、あたしのことを心配してるってのは間違いないと思うんだ。友達の娘なんて、赤の他人のはずなのにね。そういうところがありがたくもあるけど――」
「時々うざい?」
「わかる?」
「まぁ、何となくは」
「……あたしにそんなこと言う資格なんてないんだけどね」
ぼくは「土喰いのこと、いつまで黙っているつもりなんだ?」と聞こうとして、やめた。沢本が秋田川さんにバイオテロの片棒を担がせてることを後ろめたく思っていることも、いつまでもこのままというわけにはいかないと思っていることもわかりきっていたからだ。
「そういえば堆肥は? 持って帰らなくて良かったのか?」
代わりにぼくは全然別のことを尋ねることにした。
「ああ、そのことなら問題ないわよ」
沢本がぼくの方に向き直って、言った。
「後日あたしの家に届けてくれることになってるの。トラックで」
「……どんだけもらうつもりなんだよ」
「そりゃあもちろん、備え付けの物置に、詰め込めるだけ」
「臭いがすごそうなんだが」
「大丈夫。ちゃんと袋をシーリングしてくれるから。開けない限りは全然臭わない」
「なら良いんだが」
言ってから、ちっとも良くないことに気がついた。シーリングされた大量の堆肥袋を開けて、河原にまいていくのは他ならぬぼくと沢本なのだ。
「やれやれ。まだまだ先は長そうだな」
ぼくが遠くの山々を見やりながら呟くと、沢本は急にまたぼくから目を逸らして「そうね」と応じた。
やがて、道路脇に並べて駐めたぼくらの自転車が見えてきた。
「あたしはもう一度、畑の様子を見てくるから、今日はこの辺で解散にしましょう」
「ぼくも行こうか?」
「いいの。それより――」
沢本は小さくため息をついてから、ぼくの顔をじっと見つめた。
風が桜並木をゆさゆさと揺らした。どこか遠くの方でやんちゃなオートバイがエンジン音を響かせたようだった。ぼくは沢本と同じに足を止めて、彼女が再び口を開くのを待った。
「また来週、ここで」
って、言って良いんだよね? とは口には出さず、目だけで訴えてくる。
まぁ、これくらいならムカつきもしないし腹も立たないよな。だからぼくはにやりと笑ってこう返すのだ。
「ああ。また来週、ここで会おうな」
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