第三章「灌漑」

3-1「ミルクがめ」

 翌日曜日は珍しく七時前に目が覚めた。


「う、む、マジか」


 思わず呻いたのは身体中の筋肉が鈍い痛みに支配されていたからで、続いて上半身を起こしながら「ぐう」と唸り、布団をよけて「むぅ」と呟き、立ち上がって「アイエェェ」と奇声を上げた。やれやれ。黒須ファイヤーズのエースも随分となまってしまったものだ。


 ともあれすっかり目が覚めてしまったので、一階の居間兼ダイニングルームへと向かうことにする。


「おはよー。たっちゃんにしては早いじゃん」


 そう声を掛けてきたのはダイニングテーブルで牛乳入りシリアルを掻き込んでいた妹だった。


「たまにはな。そういう梓は今日も部活か?」


「まーね。大会近いし」


 自称・黒須中学の宮城リョータはこのところ毎週末、バスケット部の朝練に参加するため登校しているようだ。それなりに大所帯の部活で二年生ながらレギュラーの座を得たというのだから、部内の評価も良いのかも知れない。両親はその情熱をあとほんの少しで良いから学業に向けて欲しいと思っているようだけど。


「母さんは?」


「お父さんと一緒に不燃ゴミを出しに行ってくるって」


 窓の外を見ると確かに父のワゴン車が消えている。


「相変わらずみんな早起きだな」


「休みの日のたっちゃんが寝太郎なだけだと思うけど」


 寝太郎って。


「ぼくもシリアルもらっていいか」


「ちょっとしか残ってないよ」


 本当だ。仕方がないので台所に向かうことにする。


「何するの?」


「さすがに足りないからオムレツを作る」


「え、ずるい」


「ずるくはない。して欲しいことがあるなら正しい言葉を使え」


「タツキさまタツキさま、どうかかわいい妹の分のオムレツも作ってくださいまし」


「はいはい。少し待ってろ」


「いえーい。できればチーズ入りでお願いしまーす」


 言いながらミルクピッチャーの中身をマグカップに注ぐ。まったく、どんだけ乳製品が好きなんだ。


 ……まぁでもチーズ入りオムレツって美味しいよな。ぼくは冷蔵庫の扉を開けて卵三つとスライスチーズを取り出すと、早速準備に取りかかった。


 ボウルに卵を落として、手早く混ぜてクレイジーソルトを振る。チーズを入れるから控えめに。本当は少し寝かした方が美味しいのだけれど、梓が朝練に遅れてしまっては本末転倒だ。ここは時短でいこう。


「まだ牛乳は残ってるか?」


「飲みたいの? だったらコップを用意するけど」


「いや、そのままでいい」


 そう言って、受け取ったピッチャーの中身をボウルに加える。


「少し牛乳を足すとふわふわになるんだよ」


「へーそうなんだ」


「本当は生クリームも入れたいところだけど、生憎切らしていたんでな」


「クリームはいいよ。どれだけ取り繕ってもあれの本質は油だもん」


「ならチーズもやめとくか。脂質多いし」


「セーフ! セーズはチーフ!」


「混ざってるぞ」


 苦笑しながらスライスチーズをちぎり入れるうちに、ふとぼくは梓が小さい頃はそこまで乳製品を好きではなかったことを思い出す。


 ――そんなに牛乳飲んだって、一気に背が伸びたりはしないと思うけど。


 ――うるさいなあ! 第二次成長期継続中の人は黙っててよ!


 そうだったそうだった。ミニバスのクラブに入ってから身長を気にするようになって、それで毎日牛乳を飲むようになったんだ。でもって、飲んでる内に味に慣れたのか、半年もしないうちに乳製品大好き娘(ただし生クリームを除く)になったんだった。


「……バスケは楽しいか?」


 卵液をフライパンに回し入れながら、ぼくはふと妹に尋ねた。


「もち。楽しくなきゃ続けらんないし」


「そりゃそうだな」


 毎日牛乳を飲み続けたにも係わらず、男子の平均身長とほぼイコールのぼくはもちろん、女子の平均身長にも届くことなく第二次成長期を終えようとしている梓だが、最近はあまりくよくよしている風ではない。


 むしろ背が低くてもできるリバウンド技術の習得や背が低いからこそできる死角からのパスカット技術の習熟に積極的で、我が妹のことながらその前向きなメンタルには目を見張るものがあった。


「たっちゃんは何が楽しくて高校生やってるの?」


「お゛い゛」


 思わず低い声が出てしまった。


「お前って、時々ものすごいデッドボールを投げつけてくるよな」


「だって、たっちゃんはあんまり学校であったこと離してくれないから」


「……そうかな」


 一瞬口ごもったときに想起したのは、友人たちと馬鹿話で盛り上がった放課後のワンシーン、はじめて学校をさぼって鬼居ヶ丘に向かったワンシーン、球技大会のバレーで決勝点となるスパイクを打ったワンシーン、駐輪場で親友に呼び止められて振り返ったワンシーン。エトセトラエトセトラ。


「楽しいことばかりとは言わないけど、ぼくだってそれなりに高校生活を楽しんではいるよ。ほら、そろそろオムレツが焼けるから皿を持ってこっちに来い」


「らじゃー!」


 こういう朝だって、それなりに楽しいんだと心の中では思っていたりもする。もちろん口に出しては言わない。

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