第二章「施肥」

2-1「早起き そして/また 小さな進歩」

 八時四十分。


 剣名川が見えてきたところで自転車のペダルを漕ぐのをやめて、慣性の法則に身を任せることにする。


 この辺りは古くからの住宅街で、古い木造アパートやら薄汚れたマンションなどが立ち並んでいる。かと思えば、真新しい一戸建てが何棟も続いていたり、こじゃれたコーヒースタンドが外までいい匂いを漂わせていたりもする。そのすぐ隣に廃墟みたいな溶接工場があって、金属が溶ける臭いをまき散らしているのは考えものだが。


 そのうちに自転車の前輪がふらふらしてきたので、地面に足を着ける。それからしばらく歩いて、古めかしい床屋の前まで来たところで、サインポールの脇にジュースの自動販売機が設置されているのを見つけた。


 ――はじめから沢本のアイスコーヒーに期待してかかるというのもいかにも厚かましいし、何か買っておこう。


 そう思って自販機の近くに自転車を止めたぼくだったが、並んでいる飲料のラインナップを見て固まってしまう。どれも値段がべらぼうに安いのだ。いや、安いことそれ自体は嬉しいけど、問題はまったく購買意欲を喚起しないラベルだった。何で緑茶のラベルがダークピンクなんだよ。ミルクティーのラベルがけばけばしい黄色ってのも意味がわからないし。ひょっとしてジンジャーエールのラベルに日本の伝統的な祭祀施設のイラストが描いてあるのはあれか。ダジャレなのか。


 ……まぁいい。あとでコンビニにでも行こう。


 ぼくはかぶりを振って自販機の側を離れると、再び自転車にまたがった。


 剣名川の土手へと続く最後の坂道はなかなか勾配がきつかった。サドルからお尻を離し、足に強く力をこめる。そうして自転車の車体を左右に揺らしながら坂道を登りきると、土手の小道で右足を左によせて、ペダルに片足立ちのままゆっくりとスピードを落としていく。


「よい、しょっと」


 軽やかにステップを刻んでランディング。子供じみているが、ちょっと楽しい。


 河原にまだあの痩せぎすの少女は来ていないようだった。九時集合と言ったら、八時半前から来ているタイプだと思っていたがぼくの見込み違いだったらしい。


 ……それならそれで、今のうちにコンビニに行ってくれば良いか。


「あ」


 自転車の向きを変えてさぁ跨がろうと思ったところで、ぼくは思わず声を上げた。沢本が早足でこちらへと近づいて来ているのに気がついたのだ。


「九時集合って言ったと思ったんだけど?」


 中学校時代のジャージを違和感なく着こなし、つんと口を尖らせ、いかにも不機嫌そうな態度。でも、その沢本がさりげなく手提げを後ろに隠したのをぼくは見逃さない。手提げの中にペットボトル飲料が二本入っていることも。


「早起きは三文の徳って言うだろ? 学校サボって溜めたカルマを帳消しにしたくてな」


「あ、そ」


 沢本は心底どうでも良さそうにそう言った後で、背中に回した手提げから器用に紙の袋を取り出して、ぼくのほうへと突き出してきた。


「先に返すものを返しておくわ」


「ご丁寧にどうも」


 受け取りがてらちらりと袋の中を覗くと、洗ってアイロンがけして綺麗にたたまれたハンカチと一緒に、キャンディーの包みも二つほど見え隠れしている。何というか奥ゆかしい。


「当然のことをしただけだから。それより――」


 沢本はそこまで言って口をつぐむと、わざとらしくぼくの服装を見回した。


「そういう恰好で来たってことは、今日も手を貸す気でいるわけ?」


「こういう恰好で来たんだから、わざわざ確認するのは野暮ってもんじゃないかな」


 黒いジャージにスニーカー。首筋にはバッチリタオルを巻き付けている。まだはめてはいないが、実はリュックの中に軍手も入っている。


「そうね。確かに野暮なことを聞いたわ」


 沢本は小さくため息をついてから、ぼくの顔を正面から見据える。


「なら、今日もよろしく。代わりにと言ったらなんだけど、飲み物を買ってきたから好きな方を選んでちょうだい」


「サンキュー。じゃあ、遠慮なく」


 そう言ってから、ぼくは一瞬体を強ばらせた。


 沢本が手提げから取り出したペットボトルが、さっきの自動販売機に陳列されていた緑茶(ダークピンク)とジンジャーエール(祭祀施設)だということに気がついたからだ。


「……緑茶はともかくとして、これから体を動かすのに炭酸飲料っていう選択肢はどうなんだ?」


「仕方ないじゃない。好きなんだもん」


 選択肢なんてなかった。


「緑茶をもらおう」


 ぼくが言うと、沢本の眉のあたりの緊張が解けた。口角も心なしか上がってる。内心ウッキウキに違いない。そんなに好きなら選ばせるなよ。


 沢本の態度が妙に癪に障ったので、ペットボトルに口をつけるのを見計らって、言ってやる。


神社ジンジャエール、などと申しまして……」


 ごぶほっ。


 派手な音とともに沢本の口から飛び出した琥珀色の飛沫は、朝の光をきらきらと反射しながら河原へと落ちていった。


 沢本はと言えば、げほげほげほと激しく咳き込んだ後で、ゆっくりとこちらに振り返った。


「深山ァ、アンタねぇ!」


 めちゃくちゃ怒られた。

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