1-7「親切な隣人」

 その夜。夕食を済ませて自室に戻ったぼくは、ふと気まぐれを起こして級友のひとりに連絡をとることにした。


 ベッドに腰掛けてスマートフォンの連絡先を開き、よく使う項目の一番上にある『石渡いしわたり順平じゅんぺい』という名前をタップする。


「おう、樹!」


 スマートフォンを耳元に持って行くよりも先に、聞き慣れた声が聞こえてきた。


「遅い時間にすまない。今、話大丈夫か?」


「言うほど遅くないだろ。病欠と聞いたが、調子はもう良いのかよ?」


 野球部主将らしく、順平の声はばかがつくほどに大きく、太い。


「朝から頭痛がひどくて。でも今は大丈夫。明日は普通に登校できると思う」


 仮病の可能性を毛ほども考えない友人に心の中で頭を下げつつ、ぼくは言った。


「大事なくて良かったぜ。ノートが必要なら明日渡そう。数学と現国と英語と古典以外はバッチリだぞ」


「何ならオーケーなんだよ」


「体育」


「実技じゃねーか」


 それからぼくらは示し合わせたように笑い出した。順平との付き合いは長い。小中学校は別々だが、同じリトルリーグに所属していたこともあり、かれこれ十年近くの友人だ。


「最近の野球部はどうなんだ?」


「相変わらずうちのエースがノーコンでなあ。フォークボールを投げられる度に股間がヒュッとなる」


「前もそんなこと言ってたよな。いっそのこともう一つミットを用意して、に固定しとけば?」


「それは名案だな、ってこいつ! 野球なめんな!」


 等身大の優しさと等身大のユーモアを持ち合わせる友人との他愛ない会話。そういうものを自分がちゃんと楽しめているということに、ぼくは少しだけ安心したりもする。


「行けると良いな、甲子園」


「二年連続二回戦敗退の弱小野球部員に無茶言うなよ」


 ぼくの言葉に順平が笑って応じた時だった。誰かがトントンと、部屋のドアをノックした。


「取り込み中ー」


 ぼくがドアに向かって叫ぶと、スマートフォンの向こうの順平が「どうかしたのか?」と尋ねてくる。


「あ、いや。気にしなくて良い」


 マイクの辺りに手で蓋をしていなかったことを後悔しつつ答えると、案の定「家族に呼ばれたんだろう? また明日にしようぜ」と返されてしまった。


「悪い。それじゃあ、明日学校で」


 通話終了のアイコンをタップしてドアを開けると、立っていたのは妹のあずさだった。


「電話中だったの? ごめーん」


 少しも申し訳なくなさそうに言って、梓はずかずかと室内に踏み込んでくる。


「いつも勝手に入ってくるなと言ってるだろ」


「ノックしたじゃんドア開けてくれたじゃん」


「入室を許可した覚えはない」


 ぼくが低い声で言うと、梓は日に焼けた頬をぷうっと膨らませた。中学二年生にして百六十センチを超える長身を有する梓だが、成長したのは図体ばかりで内面はまだまだガキなのだ。


「で、要件はなんだ?」


「今週のジャンプ」


「読ませてくださいだろ」


 言いながらカラーボックスの上に置いてあったやつを乱暴に手渡してやる。


「あと、たっちゃんに電話」


「それを先に言え!」


 思わず大きな声を出してから、妹のもう片方の手にコードレスフォンが握られていることに気づいた。


「相手は誰?」


「女の人から。名前はごめん、聞き取れなかった。心当たりない?」


「ないなあ」


 クラスの友人たちなら携帯電話の番号なりメッセンジャーアプリのIDなりを教えてあるから、そちらにかけてくるはずだ。ぼくは訝しく思いながら、コードレスフォンを受け取った。


「たっちゃん昔から女子にモテたからねー」


「うるさい。出て行け」


「ちょっとー」


 蚊のような妹をデコピン連打で部屋の外に追い出すと、ぼくは電話機の保留機能を解除した。


「……もしもし?」


 そう問いかけても、電話の相手はしばらくの間返答をしなかった。


 いたずら電話の類だろうかとも思ったが、すぐにそうではないと理解する。


 電話の向こうから聞こえてくるかすかな息づかいは、声を発するタイミングを見計らうためのものに相違なかった。


「こんばんは」


 やがて、電話の相手は躊躇いがちにそう言った。


「沢本? 沢本なのか?」


 昼に会った時のあの強気で高慢で凛とした態度とは、激しいギャップがあるが間違いなくそれは沢本遥の声だった。


「そう」


 彼女は相変わらずやけに弱々しい声で、ぼくの問いに応じた。


「えっと、どうしたんだ?」


「ハンカチを返し忘れた」


 確かに返してもらった記憶がない。


「そっか。ぼくも今の今まで忘れていた」


「ごめん」


「いいよ、忘れてたこっちも悪い」


「よくない。借りっぱなしだったのはあたしだもの」


 それから沢本はまた、口をつぐんだ。


 また、小さな息づかいが聞こえてくる。


 ぼくはだから、沢本が再び口を開くのを辛抱強く待った。


「次の土曜」


 やがて、沢本は言った。不機嫌そうな、それでいて、緊張した声だった。


「うん」


 ぼくはなるべく感情を込めずに、短く応じる。


「洗濯して返す。ちょっと早いかもだけど、朝九時に今日のところで待ち合わせってことでも良い?」


「オーケー。それで構わない」


 そういうわけで――今日で完結すると思われたささやかなストーリーは、どうやらもう少しだけ続くらしい。

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