第6話

 報道フロアに戻れたのは夕方だった。足も腰も痛い。腰が痛くなったのなんて、高校の体育のマラソン以来だ。初日からこんな肉体的労働をするとは思ってもいなかった。こんな生活が続けられるのか、心配になってきた。

 社会部の島には、半分ほどの人で埋まっていた。部長が女性だからか、半分以上は女性社員だった。

 自己紹介。今日は何してたの。雪川さんに言われて取材してました。ああ、いつものね。という流れを飽き飽きするほどした。

 私にこんな仕打ちをした雪川本人はこの場にいない。


「雪川さんはどちらにいらっしゃいますか?」


 柔和な顔の女性に訊く。


「ああ、仮眠室じゃない? 部長、ほとんど局内で寝泊まりしてるから、自宅に帰ってることはないと思うよ」


 耳を疑う返答だ。

 局に住むだなんて、社畜どころの話ではない。むしろ、テレビ局が家として利用されているみたいだ。

 仮眠室も報道局と同じフロアにあるらしい。アナウンサーで夜勤の人は、アナウンス部に近い別のフロアの仮眠室を利用するから、この仮眠室に来たことはなかった。

 仮眠室のレイアウトは統一されているらしく、部屋の左右の壁に二段ベッドが一つずつ配置されていた。ご時世もあり、消毒用のグッズがドアの近くに置かれている。

 左側の天井に近いベッドを見ると、掛け布団がこんもりと膨れているのが見えた。他のベッドに人がいる様子はない。どうやら、雪川はあそこで寝ているらしい。


「雪川さん、取材終わりました」


 呼びかけると、もぞもぞと芋虫のように布団が動いた。手すりから彼女のパリコレモデルのような腕が飛び出し、エキゾチックな顔が覗いた。


「ご苦労様。報告はここで聞くわ」

「メモの入ったパソコンはデスクにあるのですが」

「今日取材したことでしょう? そのぐらい空で言えるんじゃないの? アナウンス部って、倍率凄いのに、能力じゃなくて顔の可愛さで判断してたのね」


 胃が直火で煎られるように瞬時に熱くなった。

 マジで覚えてろよ。


「言えますよ、言えますとも」

「じゃあ、どうぞ」


 私は取材した情報を矢継ぎ早に説明した。彼女は一度も聞き返さず、頬杖をつきながら夢想しているような表情をしていた。

 話し終えて、発散した呼気を取り戻すように深く息を吸う。


「……以上です。ノルマは達成しましたか?」


 彼女はすぐに答えず、ただ悲しそうに顔を顰めていた。私の取材内容に失望したのだろうか。でも、それとは異なる感情が内包されているように思えた。


「あなたは、強盗殺人犯を探そうとしているの?」

「それは無理だと思っています。警察が見つけていない情報を記者が発見するなんて奇跡に近いですから」

「質問の仕方が悪かったわ。あなたはこの情報を得ておいて、強盗殺人犯がいると思ってるの? 警察も他の記者にもうんざり。適当に仕事をしてるのね。いや、単に視野が狭いだけかしら? 人はありえそうな方にベットする生き物だものね」


 強盗殺人犯がいると思うのか?

 それがどういう意味なのか、わからなかった。警察もマスコミも世間も、あの寂れたアパートで卑劣な強盗犯が門倉愛を殺害したと思っているじゃないか。


「それはどういうことですか? 雪川さんは、強盗殺人ではなかったと考えているんですか?」

「ええ。警察だってそこまで無能ではないでしょうから、近いうちに方針を変更するでしょう。完璧に証拠を消すことは難しいはずだから。それに現時点で矛盾が生じている」

「矛盾、ですか? おかしな点なんて一つもないように思えましたが」

「あるわよ。強盗殺人説をとるなら、犯人は事前にどこにどんな人が住んでいるのか調べるのが普通。それはあなたもわかっていた。であれば、犯行時に門倉沙耶が部屋にいることもわかっていたはずじゃない? どうして、彼女は殺されなかったのか。門倉愛に恨みを持っていた人物が殺害したあと、強盗に見せるため現金を持ち去ったという可能性もある。でも、それなら被害者しかいない時間帯に犯行に移そうと考えるでしょうし、凶器を現場で仕入れたのはおかしい。この辻褄の合わない点を解消するは簡単よ。はじめから、外部犯は存在しなかった」


 流暢に推理を披露していた雪川が急に黙る。結論を言うかどうか迷っているようだった。溜息を挟み、最期を告げる医者のように言う。


「門倉愛を殺したのは、娘の沙耶だということよ」


 仮眠室の広いとは言えない空間が静寂に満ちた。

 私の周りだけほんの少し世界が捻れたみたいだった。

 そんなはずはない。そんなことは、あってはならない。


「そんなの、まだ中学生ですよ? そんな子が母親を殺しますか?」

「……仕方ないじゃない。その方が理屈が合うんだから」

「警察を一度でも欺くような犯罪計画を中一の子供がたった一人で思いつきますか?」

「世界には子供で博士号をとる天才もいる。年齢だけで知能レベルを確定することはできない」

「彼女はPTSDです。事件でショックを受けた証拠です」

「加害者が心に傷を負うこともあるかもしれない。子供なんだから」


 反論を全て弾かれ、言葉を失った。

 見えていた――そう思っていた事件の様相が、一手でリバーシの盤面が黒になるように変わっていく。


「証拠がない今、推測では報道はできない。けれど、もし、警察が動き出したらうちの会社も、他社もこぞって報道するでしょう。幸い、実名はまだ報道されていない。更生のチャンスはあるわ」

「実名なんて、SNSで一瞬で広がります。少年法は時代遅れなんです」

「そうね、このままでは彼女は自殺するかもしれない。自分の犯した罪の重みに耐えきれずに」

「そんなこと、良く平然と言えますね?」


 やっぱり、雪川という人は心が擦り減った人なのだ。心が痛みを感じない。他人がどうなろうと構わないのだ。


「そう見える?」

「はい」

「まぁ、それはいいわ。でも、責められるべきはあなたじゃない? 彼女が犯人だということに違和感を持ちながら、もう諦めている」

「だって、記者にできることなんてたかが知れているじゃないですか? 放送時間や紙面を埋めるためのコンテンツを作るだけで、何ができるというんですか?」

「言ってくれるじゃない」


 雪川はベッドを降り、私の目の前に立った。私を見下ろして言い放つ。


「世論をつくるのは私達、記者よ。嫌でも目に入る情報だもの。オワコンだろうがなんだろうが、そういう力が報道にはある。戦争の醜さを訴えるものも、捻くれた詭弁も、誰かの記憶に残って、世論に影響を与えてしまう。少なくとも私の目の届く限りの記者はそれを自覚している。細心の注意を払って取材をして、ニュースにしている。警察が調べていない情報があるなら、あなたがそれを調べ尽くしてニュースにしなさいよ。それを世論にしてしまえばいい。司法が判断基準にするほどの証拠能力はなくてもいい。私が納得するニュースなら上を説得してでも国の電波に乗せてあげるわ」


 雪川は唾を飛ばすような勢いで捲し立てると、私の額をでこぴんした。


「いだっ――何するんですか?」

「で、どうすんの? やるの? やらないの?」

「やりますよ、やればいいんでしょう?」


 宣言すると、雪川は満足げに鼻を鳴らして仮眠室を去った。

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