第4話

 墨田区の住宅地の中でも、築年数の高い木造住宅がびっしりと埋め尽くすようなエリアに事件のあったアパートはあった。街全体の新陳代謝が図られておらず、街が住民を置いてけぼりにして歳を取っているような印象を受けた。

 とりわけ、アパートは暗かった。曇天で光が届きにくいだけでなく、その雲まで地上に引き寄せるような力があるように感じた。

 事件が起きる前からこうだったのだろうか。雰囲気そのものに年季が入っているように感じた。

 左下のドアの前に制服警官が一人立っていた。微妙に重心をかける足を変えて、疲弊を誤魔化そうとしているようだった。

 私と同じように塀の外側から黄色と黒色のテープが貼られたドアを見ている人間がちらほらいた。記者やカメラマンらしき人に加えて、興味本位で見にきたような人もいた。近くで物騒な事件が起きたのだ。恐怖心も好奇心も住人を刺激しただろう。

 犯人が侵入したのはベランダだと聞いた。恐らくは、玄関口の反対にベランダがある間取りだろう。

 裏に回って見てみようか。

 塀と隣接する一軒家との間には人が通れるほどのスペースはなく、玄関側の道路を西に進み、並び立つ家が途切れたところで回り込み、アパートの方へ戻るしかなかった。

 塀とベランダの間には人目避けの木が植えられていた。裏庭というには狭く、木も剪定されている様子はなかった。

 木の枝葉の間からベランダの様子を見てみる。裏に回ったから、右下が事件現場のベランダだ。

 錆びた金属製の手すり。物干し竿。埃のついた網戸とすりガラス。

 窓を開けて、今も門倉愛が洗濯物を干そうと出てくるのではないか。そんな錯覚がある。そんなことはありえないというのに。

 夜になったら、どう見えるだろう。

 街灯と街灯の間に、アパートがある。これらが点灯しても街灯の真下に比べたら弱い明かりしか届かない。ベランダからの室内の明かりも、深夜では期待できない。

 洗濯物は干されていなかっただろう。誰が住んでいるのか事前に把握していたと考えるのが自然だと思う。手がかりが一切ないのにシングルマザーで女性しか住んでいない部屋を当てるのはおかしい。普通、女性は防犯の観点から二階以上に住むものだ。


「あなたも同業者?」


 ざらざらとした声で背後から呼び掛けられる。

 振り返ると、汚らしい軍モノのジャケットを羽織った40代くらいの男がいた。唇の隙間から黄色い歯が覗いていた。

 気配を感じなかったので、私は男に妙な気色悪さを感じた。


「どなたです?」

「俺はフリーでジャーナリストをやってるタザキね。あなたは……あれ? あれあれあれあれ、例の不倫アナ?」


 話し方もゲス、距離の詰め方もゲス。

 ゲスな世界の水に浸り続けてきた男だと直感した。

 背を向けて小走りで彼から逃げた。

 けれど、彼はしつこくついてくる。


「あっ、わかった。サンサンテレビが波風立てたくないから他部署に臨時異動させたのか。それで今ここに」

「ついてこないでください。通報しますよ」

「いいよ、どうぞしてください。こんな事件よりあなたにインタビューした方が高い金で買ってもらえる。虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってね」


 逃げ道を塞がれていた。

 けれど、恐怖心よりも『こんな事件』と言ったタザキの野郎に腹が立っていた。睨みつけ、こいつが死ねばよかったのにと呪いをかける。

 タザキが死ぬ予兆はない。

 ついてない。もう本当に嫌だ。真面目に生きてきただけなのに、人の弱みにつけこむ人間の方が楽しそうに生きている。


「何してんの、あんた? その子、困ってるよね?」


 突然現れた高身長のビジカジスタイルの男がタザキの首根っこを掴んだ。


「何すんだよっ」


 タザキは抵抗したけれど、屈強なビジカジ男を見るなり、その場から不格好に去った。

 ビジカジ男が軽く溜息をついたあと、馴れ馴れしく、


「まったく、君も大変だったね」

「助かりました。ありがとうございます」

「僕は東都新聞とうとしんぶんのミカミです」


 男はスマートに名刺を取り出し、名乗った。

 三神みかみさとる、というらしい。

 自信家の星で生きてきたような感じがして、こっちはこっちで苦手なタイプだ。男は女を守るべきだという考えが根っこにありそうな感じがする。

 お前も名乗れ、という視線を寄越してきたけれど、名前を出すのは嫌だった。


「サンサンテレビの者です」

「へぇ……じゃあ、あの雪川さんが部長なのか。羨ましいなぁ」

「羨ましい?」


 あのパワハラ上司の下で働くことのどこに利点があるというのか。ひょっとして、彼はドMなのだろうか。


「性格はキツいって聞くけど、ジャーナリストとしての実力は日本一でしょ? 国内外で表彰されてるんだ、学ぶことは多いと思うんだよね」

「そうなんですか?」

「知らなかったの?」

「今日で配属になったので、会ったのも今日が初めてです」

「それで現場に来てるのか、大変だね。それはそうと、このあとランチでも――」


 私は彼の言葉を遮るようにお辞儀をして、現場から離れた。

 歩きながら、確かにランチどきだなと考えていると、お腹がぐうっと鳴った。

 スマホで近くの飲食店を検索してみると、美味しそうな洋食屋がヒットしたのでランチはそこでいただくことにした。



 洋食屋は初見では入りにくい地元に密着したタイプの店だった。店外には必要最低限の情報しかなく、常連以外受けつけないような気さえする。

 店に入ると、その心配は無用だったとわかった。

 厨房のシェフとフロアの年配の女性が、


「いらっしゃいませ」


 声を合わせて歓迎してくれた。

 息の合わせ方を見る限り、どうやら二人は夫婦らしい。

 お昼どきで混雑していたけれど、カウンター席が空いていた。

 名物とあるカニクリームコロッケが入ったBランチを注文し、完成を待った。

 左斜め後ろのテーブル席からかしましい喋り声が聞こえてくる。


「まだ捕まらないわよね、犯人」

「そうそう、私ほんと怖くって」

「殺されちゃったお母さんの方、どこかで見たことあるなって思ってたんだけど、あそこの郵便局近くのスーパーあるでしょ? あそこで働いてたと思うのよ」

「あら、そうなの? じゃあ、私もレジしてもらったことあるかしら?」

「そういうことよね。まだ小さい子供を遺して、無念だったでしょうね」


 声の持ち主である二人が話しているのは、強盗殺人事件についてだと直ぐにわかった。

 近所のスーパーの中で、郵便局の周囲にあるものを検索すると、該当するのは一箇所だけだった。

 食べ終わったら、被害者の勤め先に向かおう。もし、犯人が被害者を以前から狙っていたのなら、勤め先のスーパーで怪しい人物を見かけた者もいるかもしれない。警察も聞き込みをしたかもしれないけれど、時間が経って思い出すこともあるだろう。

 スーパーの位置情報を保存して、スマホをバッグにしまった。

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