第3話
雪川の紹介してくれた刑事は
メモに記載された電話番号にかけると、爽やかな声がした。雪川の部下だと名乗ると、どこどこの喫茶店で待ち合わせましょうと話が進んだ。
喫茶店は、最近、再ブームの純喫茶だった。店の外装より内装が綺麗で、一度内側だけリフォームしたのだとわかる。
革張りのソファーは中の綿が少しへたっていて、長時間座ったらお尻が痛くなるだろう。
カウンター付近にあるテーブル席で、コーヒーを飲みながら杉本を待った。約束の午前11時を既に数分は過ぎている。いきなり呼びつけたようなものなので遅れるのはいいけれど、刑事という特殊な仕事だからここまで来てドタキャンもあり得る。さすがにそれは勘弁してほしい。
ベルがちりんと鳴った。
見ると、七三分けの恰幅のいいスーツ姿の中年男性が入店したところだった。閑散とした店内を見渡し、私と目が合うと会釈をしてきた。大股で私の元へ近づいてくる。彼が杉本のようだ。
立ち上がり挨拶しようとすると、
「いいんです、いいんです」
と、手の動きで制される。
「どうも、杉本です。近くの警察署の刑事課で刑事やってます」
背広の内側で、警察手帳を覗かせながら杉本は名乗った。
私も名刺を渡そうとして、まだ名刺すら支給されていないことに気づいた。今朝の慌ただしさを思い出させる。
「鬼怒川と言います。本日はお忙しい中、お時間を割いていただきましてありがとうございます」
「いえ、あなたも大変でしょう。雪川さんは何というか凄まじいですからね」
「私は仕事ですから。雪川とはどんなきっかけで知り合ったのですか?」
杉本は懐かしがるように遠くを見た。
「いやぁ、彼女とは私がペーペーの頃からの付き合いでして。困った人ですよ、新人の私を騙すように喋っちゃいけない捜査情報まで引き出そうとするんです。彼女も新米の記者だったはずなんですけどね、その手腕は既にベテランでしたよ。まぁ、お世話にもなりましたので、嫌いにはなれません」
刑事が記者の世話になるなんてことはあるのだろうか。頭を巡らせて見るけれど、答えは出ない。
「杉本さんはどうして雪川に恩を感じるのですか?」
「それは、まぁ、近いうちに本人からお聞きになると思いますよ。というか、似たような人間は日本各地にいますよ」
何を勿体ぶって。しまいには、謎が増えた。
まあ、二人の関係にこれ以上掘り下げるほど興味もない。
私は来る途中にコンビニで買ったB6サイズのノートを開いた。
「例の強盗殺人事件について、大まかに訊かせていただけますか?」
「ええ、構いませんよ」
杉本は手帳を開くこともなく、現在判明している事件のあらましを聞かせてくれた。
通報があったのは、10月12日の午前2時。
被害者の門倉愛の中学一年生の娘、
沙耶は押し入れでプラネタリウムを見るのが好きで、事件当日はそのまま押し入れで寝落ちしたおかげで犯人に気づかれなかったようだ。
駆けつけた近所の交番勤務の警察官によると、愛はベッドに仰向けになった状態で首を刺されていた。即死と見られる。
沙耶が目撃した犯人の容姿は、身長170センチぐらい、中肉中背、上下黒のジャージ、マスクをしてフードを目深に被っていた、とのこと。
警察は通報を受け、早急に包囲網を敷いた。エリア外に出るための道路に警官を配置し、証言に合う人物、怪しい人物を探したが返り血を浴びた人間は見つからなかった。現場の周囲でパトロールを行ったが、犯人は確保できなかった。
司法解剖の結果、死因はやはり頸部の刺創からの出血性ショック死だった。頸部の太い動脈が切断されたため、出血の量が凄まじく、現場には頸部から周囲の壁や布団に血飛沫がかかっていた。
凶器は被害者の顔の横に置かれていた。
窓は割られておらず、偶然鍵がかかっていない窓を見つけ、門倉宅に侵入を試みたと思われる。叫び声を聞いたものはおらず、就寝中の被害者を一突きしたのではないかと考えられる。
沙耶の服は亡くなった母親に抱きついたからなのか、大量の血が染み込んでいた。ショッキングな経験をした彼女はPTSDを発症し、現在は吃音症状も出ている。
「沙耶さんの症状は治るものなのですか?」
訊くと、杉本は眉根を寄せた。
「彼女がこの経験を乗り越えるしかないようです。幼い彼女の心にもつけられた血痕を拭うことができるのかは彼女次第としか言えないようです」
「そうですか……これから、彼女はどうなるのでしょう?」
「親しい親戚もいないようで、現在は引き取り手が見つかっていません。児童養護施設に入所する可能性が高いですね。里親が見つかるといいのですが、里親と上手くいかない子も少なくありません」
私は曖昧な相槌を打つことしかできなかった。
門倉沙耶のこれからに立ち塞がる壁はあまりにも多い。犯罪被害者は加害者よりも保護されないものだと知ってはいた。でも、あんまりだ。彼女が弱みを見せられる人はこの世にいない。消されてしまった。
「初めてです」
杉本が微笑んで言った。
「何がでしょうか? おかしいことを言いましたか?」
「記者の方って、犯人や犯罪行為そのものへの興味が勝つんですよ。でも、あなたはずっと被害者遺族のことを気にしていました」
「それは、当たり前ではないですか? 私は記者になって間もないからかもしれませんけど、まず目を向けるべきなのは沙耶さんだと思います」
「そうですね。私もそうだと思います。ただ、それが段々難しくなるのかもしれません。刑事も記者も、報道を見た人達も、卑劣な犯罪の被害者やその遺族に目を向け続けていると、自分の心まで擦り減っていきますから。無意識に目を逸らすようになるのかもしれません」
そういうものなのか。
事件は毎日のように起きている。凶悪犯罪も、一年で何件起きているだろうか。その度に自分のことのように考えていたら、仕事にならないのかもしれない。
そうはなりたくない。
雪川の傲慢な態度を思い出す。
あんな風に王者のように振る舞う雪川は、人並みに喜怒哀楽があるのか。誰かのために涙を流す人間の機能をまだ有しているのだろうか。
ああはならないようにしよう、と思った。
杉本は腕時計を確認すると、伝票を持って立ち上がった。
私は焦って、
「杉本さん、私がお支払いします」
「いえ、年長者のつまらないプライドですから」
初めてまともに刑事と話したけれど、しっかりした人だ。左手薬指には指輪が光っている。堅実な人は堅実な生き方をするのか。
ご馳走になったコーヒーを飲み干し、マスターに会釈をして店を出た。
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