第2話
社会部はテレビ局の八階にある。報道局に所属する全部署は八階に集中していて、他にも政治部などがこのフロアにいる。各部ごとに部屋が分けられているのではなく、広い空間に大量の机と椅子が各部ごとに島を作って配置してある。
デジタル時代にもかかわらず、書類の束がどの机にも積まれ、張り詰めた空気が漂っていた。フロア内に放送用のミニスタジオがあり、ガラスからデスクが透けて見えるからかもしれない。
私もいつかあそこで原稿を読み上げるはずだった。やっぱり意識はしてしまう。
社会部がエレベーターを降りて、手前の入り口から見て最奥にあるせいで、多くの社員の好奇な眼差しを一身に浴びる羽目になった。
アナウンサーを目指していた大学生の私に陰口を叩いていた奴もいたけれど、気にしなかった。なのに、今は少し挫けそう。
丸まりそうになる背中を真っ直ぐに保ち、社会部まで堂々と歩こう。まだ初日。負けるのは嫌いだ。
社会部と印字された長方形のパネルが天井からワイヤーで吊られている。デスクには誰もいなかった。
どういうことだろう。定時の10分前だ。誰かしら着席しているべきではないか。
立ち尽くしていると、後ろから呼びかけられる。
「あんた、
腹の立つ言葉に、睨みつけながら振り返る。
目の前に180センチ近い凄みのある女性が立っていた。はっきりとした目鼻立ちで、ストレートの黒髪が腰まで垂れている。年齢はわからない。30にも50にも見える。
「どなたですか?」
文句の一つでも言おうかと思っていたけれど、予想外のデカさに気圧された。
「部長よ、ここの」
社会部のパネルを指差し、どうでも良さそうに言う。
不味い、と腰を折りながら、
「失礼しました。本日から社会部でお世話に――」
「そういうのいいから。上下関係も別にこだわりないし。私の名前はユキカワユキノ。ユキカワ部長は年寄りになったみたいで嫌だから、ユキカワさんでもユキノさんでもユキちゃんでも好きに呼んで」
「……承知しました。他の社員の方はいつ出社されるのでしょうか?」
「ああ、みんな家から直接取材に行ってるから、夕方ぐらいに出社してくるんじゃない?」
「それから、また仕事ですか?」
「そうよ。私は別に適当に仕事をすることは咎めない。みんな気になるから取材してるだけ。ていうか、座らない? 疲れるから」
ユキカワは自分のデスクで長い脚を伸ばし寛ぎ始める。書類の散乱したデスクから、
「あんたのは、ここ。私の真横」
いわゆる、お誕生日席に位置する雪川のデスクにぴたりとくっついていた。
なんてことだ。こういう傍若無人な人は大の苦手なのに、真横って。部長の隣って。部長の横に並んで働く入社一年目の社員などどこを探しても見つからないだろう。
「雪川さん、他の場所は空いていないんですか?」
「空いてる。でも、移動はできない。私は部下が記者として最低でも半人前になるまでは目の届く位置に置いて、指導をしたいの。さぁ、どうぞ座って。早速、あなたに仕事を任せたい」
「はい」
と、反射的に返事をしたものの、部長直々に指導するというのは行為そのものがパワハラではないか。彼女は自分の見た目がただでさえ威圧感を与えるとわからないのだろうか。
それに、初日に任せたい仕事とは何なのだろう。まさか取材などではないはずだ。きっと、散らばった書類を整理したりとかそういう雑用だと思う。
椅子に座り、一息つく間もなく、雪川が一枚の5センチ四方ほどの紙を渡してくる。見ると、ぎりぎり解読できる崩し字でどこかの住所が書いてある。
『東京都墨田区――』
どこだろう? 心当たりがない。
「すみません、これはいったい?」
「察しが悪いわね。ここに取材に行けってこと。あんたも知ってるんじゃない? 一昨日、この場所で強盗殺人が起きたことを」
墨田区、強盗殺人。
昨日見たニュースが記憶の海でぱちんと弾けた。
「そんな、私はまだ初日ですよ。いきなり、こんな重大な事件の取材だなんて……上手くできるはずがありません」
「できるできないじゃないから。それに、これは放送のための取材じゃない」
雪川がきっぱりと言い、足を組み直す。
言葉の意味を汲みかねる。
「なら、何のためなんでしょうか?」
「私の嗅覚が何かあると言ってるから。ただそれだけ。あんたは取材の練習ができるし、私はこの事件を知ることができる。ウィン・ウィンでしょう? 優しい私が知り合いの刑事も紹介してあげるから安心していいわ。あとは足を使って調べ尽くして」
意図がわからないまま、外堀がもの凄い勢いで埋められていく。
「放送分の取材ができているなら、事件の概要はもうわかっているんじゃないですか? それなのに、これから私が調べても何の意味もないんじゃないでしょうか?」
「もう、答えは出てるじゃない。概要しかわからないのよ。放送まで取材にあてられる時間は限られている。得られた情報を精査するよりも、情報の無駄な部分を削ぎ落とすことが必要になる。私が欲するのはスリムな情報じゃないのよ」
ようやく彼女の意図を掴み始めた。
要は部下を使って、自分の知識欲を満たそうというのだ。雪川雪乃は社会部の女王だ。
書類が雪のように白く積もった山の頂上で、玉座に背をもたれる雪川が冷たい微笑を浮かべる姿が目に浮かんだ。
「さぁ、だらだらしていないで早く行って。練習とはいえ、適当な仕事をしたら評定を下げるわよ」
時代錯誤のパワハラだ。アナウンス部のおじさんの上司よりもよっぽどパワー型じゃないか。
胃がきりきり痛み始めた。元凶を睨みながら、
「行ってきます」
と、言ってみるも、彼女はにやりとするだけだった。
何て人だ。どうしてこんな人が部長にまで登り詰めたのか理解に苦しむ。
初任給で買ったブランド物のバッグを肘にかけ、私はフロアを飛び出した。
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