見えない親子
十野康真
第1話
母は男を誑かすのが上手だった。
気のあるふりをして、男から金を引き出して生活を成立させてきた。今考えると不思議なのは、何人もの男をひっかけていたのにストーカーになったりすることもなく、何の後腐れもなかったことだ。私の知らないところでトラブルはあったのかもしれないが、後ろから包丁で刺されることもなくピンピンとしている。
彼女は裕福な男を捕まえた。
お金持ちのおじさんは私を高校から大学まで通わせてくれた。その他にも支援と称して洋服を買ってくれたり、美味しい食事をご馳走してくれたりした。私をいやらしい目で見ることもなく――いやな目で見る男は漏れなく母がいつの間にか関係を解消していた――大人が子供を可愛がる一般的なそれで可愛がってくれた。良い人だと思う。
けれど、母は私の実の父親との死別を最後に誰とも結婚していない。彼女の心の大切な部分までは媚びることができない、とでも言いたげ。
そんな母が、嫌いだ。
向こうも私を溺愛するタイプではない。需要と供給がぴたりと釣り合うように、私は母に連絡しないし、彼女も滅多にしてこない。
それなのに、私のスマートフォンが照明を点けていない部屋の暗闇の中で、刺々しい光を放ちながら震えていた。液晶に『あの人』と表示されている。
体操座りで鳴り止むのを待った。
自動音声が始まるまで母は電話をかけ続けた。おかけになった――の、おかけあたりで電話が切れた。
ほとんど間をあけることなく、再びヴァイブレーションが始まった。
あの人は私が電話に出るまで鳴らし続けるつもりなのだ。彼女の頑固さは溜め息が出るほど凄まじい。自分の膝と膝に顔を埋めていても、鬱陶しい音が私を苛み続ける。
電話に出ることにした。用件はわかっている。だから、出たくなかった。
「もしもし」
久しぶりに発した声は狭くなった喉を不器用に這い出てきた。
「ねぇ、
この人の声は五十を越えてもまだ若々しい。普段の清楚な格好に合う透き通った声。私と少し似ている声。
「アナウンス部から社会部に異動になった……でも、心配しないで。私は相手が既婚者だって知らなかったから、慰謝料どうこうはない。何なら、あの男から慰謝料を巻き上げるつもり」
「そう、ならいいんだけど。じゃあ、切るわね」
一方的に電話が切れる。私のバイバイは聞くつもりがない。そういう人だとはわかっているけれど、娘の様子がおかしいと声だけでも察知するものなのではないだろうか。私の母親なんだから。
でも、同情されたり哀れに思われたりする方が嫌だ。
ネットニュースを見ると、私と先輩の不倫がトップに来ていた。ホテルに入ったところを週刊誌に撮られた。自分の名前が媒体に載って苦しくなったのは初めてだった。
学生時代に表彰されたときも、今年の春にアナウンサーとして初めてお披露目されたときも、自分の名前がより多くの人の目に触れることは快感だった。
積み上げて、勝ち取った私ももう終わりだ。
どうしてこんなことになったんだろう。
男遊びをしている女が嫌いで、自分はそうならないように堅実な恋愛しかしてこなかった。だから、クズ男を見抜くセンサーが養われなかったのかな。彼が既婚者だと微塵も疑わなかった自分が恥ずかしい。
これからどうしよう。いっそ、会社を辞めてしまおうかな。どうせ私の居場所なんて社会部にもないだろう。どんな顔で働けばいいのか想像もできない。被害者なんですって顔? ふざけんな。
一人の夜を寂しいとは思わない。
でも、今日ぐらいはただ相槌を打つロボットでもいいから傍にいてほしい。
自分のお腹の音がワンルームの狭い部屋に響く。
私はストレスが溜まるとやけ食いをしたくなるタイプだったんだ。初めての自分。
いつも食費を節約していることは忘れ、食べ切れるかわからない量のジャンクフードをフードデリバリーで頼んだ。
ピザのMサイズを一人で平らげ、牛丼、ハンバーガーを胃に収めたところで、身動きできないほどにお腹がパンパンになった。
少し、気が紛れた。気のせいかもしれないけど。
落ち込むのにも疲れて、テレビを点けた。ネットと違ってテレビでは私のニュースは流れていない。勤めているサンサンテレビのチャンネルには合わせなかった。バラエティー番組で笑える余裕はまだない。消去法でニュース番組にした。
ほとんど見たことのない番組だった。
本業は芸人であるはずの男がキャスターを務め、時々ニュースの本筋からずれたことを言うせいでSNSで叩かれるのも珍しくない。
キャスターが頼りないからか、脇を固める女性アナウンサーやコメンテーター陣は中堅どころ。私としては、一人くらい尖った意見を述べる人もキャスティングすればバランスがとれると思うけれど、予定調和の番組にはそれなりに視聴者がつくことも知っている。
話題ははじめ、政治についてだった。
一番の特権階級にいる政治家達が格差是正を訴えたり、性についてろくな教育も受けていない年配の彼らが性の多様性について端から端まで認識しているような面をしているのが癪に障った。今日は何でも癪に障る。
どうでもいい。流し見するには丁度いいよ。
女性アナウンサーが眉を顰めて言う。
『続いてのニュースです。東京墨田区の下町で、凄惨な事件が起きました』
画面がアナウンサーから、どこかの住宅地の映像に切り替わった。
年季の入った一軒家の間に、塀に囲まれた二階建てのアパートがある。アパートの外壁はトタンで、もう少しして冬が来れば寒さに震えることになりそうだ。塀が途切れたところから、接している車二台幅の道路に出ることができる。それぞれの部屋の玄関ドアは道路側にある。
カメラはアパートを近距離で撮影することはできていない。警察が部外者の接近を規制しているからだ。見える限りで全六戸あるうち、一階の左端の部屋があるだろう位置に、ブルーシートがドアの前にもう一室作るように覆っていた。
事件はこの部屋で起こったんだ。
多分、殺人事件だろう。
直感だった。
右上には赤い文字の見出しがある。
『墨田区で強盗殺人 母親が死亡』
やっぱり、そうだ。あのブルーシートの奥の部屋で一人の女性が凶悪犯に殺されたのだ。
『昨日未明、同居する中学生の娘から母親が殺されたと通報があり、警察官が駆けつけると、親子の自宅で母親が刃物のようなもので刺され死亡しているのが発見されました。母親の名前はカドクラアイさん、34歳。娘の証言によると、突然一人の強盗が押入り、カドクラさんをキッチンにあった包丁で殺害、自宅にあった現金3万円を窃取し逃亡したとのことです。娘は押入れに隠れていたため、無事でした。犯人は現在も逮捕されていません』
画面下に
高校の卒業アルバムから転用したらしい彼女の画像が映る。黒髪を肩で切り揃え、目尻に皺を作りながら微笑んでいる。大人になってからの彼女の写真を持っている人はいなかったのかな、と気になった。
まだ若いのにこんな風に命を絶たれるとは思っていなかっただろう。どうして普通に生きているだけで立ち向かうこともできない悪意に傷つけられなければいけないんだろう。
残された子供はこれからどうなるんだろう。誰かの養子になるんだろうか。里親はまだ幼い子供を育てたがるらしい。中学生は大き過ぎるかもしれない。児童養護施設で高校生まで過ごし、大学には通えず働きに出るかもしれない。殺されずに済んで良かった、とも楽観できない。生き残った彼女はこれからする必要のない苦労をするのだ。彼女は犯人に未来を殺された。
沈痛な表情のキャスターのコメントのあと、コメンテーターに話が振られた。
不意に思考が止まる。
他人の心配をしている余裕はないじゃないか。
私は私で渦中にいる。今日で有給休暇も終わりだ。明日からは、新たな部署で働かなければいけない。人事の思惑はわからないけれど、ほとぼりが冷めたらアナウンス部に引き戻してくれるかもしれない。それまで社会部でそれなりに仕事をしなければいけない。
面倒だけどお風呂に入って、歯を磨いた。
布団に入っても眠くならない。
他の凶悪犯罪には感じなかった何かを私は感じたのだろうか。
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