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 いつからか精神の安定していない人間みたいに、秋風諷真の小説を携帯し始めていた。木葉ちゃんが来るまでの間、「処女のまま死ぬなんて」の文章に触れる。私に小説を書く理由を与えたあとがきも読み返して、彼の考えていることを探った。

 ──ああ、人を必要としてないんだ、この人は。

 腑に落ちた。まるっと考えが飲み込めた。ここにきて、なんなんだ。

 秋風諷真の文章は良い。やはり良い。心が落ち着く。

 二限はまったく身が入らなかった。浩輝にしてもらう説明も、はい……はい……といった感じで耳に入っていない。まあ、あっちはそれでもいいかって感じで説明を続けていたようだけれど。

 このまま小説を読み耽ってしまうと木葉ちゃんが来たことに気づかないのではないか、そもそもこのタイミングで秋風諷真の小説を読んでいるのは彼女に対する意趣返しになるのではないか──。あとどのくらい読めるか気が逸ってスマホを確認すると、まだ五分しか経っていなかった。

 そう言えば、彼女は何時ごろ来てくれるか言ってなかったと思った時には遅かった。私はお昼を食べていない、話が長引けば私はお昼を食べない状態で授業に臨むことになってしまう。

 私は落ち着いて秋風諷真の文章に目を落とした。思えば、比較対象なんていなかった。最初から。秋風浩の小説は特に気に留めたこともなかったし、秋風以外の作家を読むことはもちろんあったけれど、差別化されるのはなんでも「あの時受けた衝撃を越えられるか」だったからだ。

 建て付きの悪いドアだったから彼女が来たことにはすぐに気付いた。十五分が経っていた。

「お待たせ」

「うん」

 沈黙が数秒続いた。彼女は、肩に掛けていたカバンを椅子に乗せて、座った。私は既に彼女が来るのを察して本をしまっていた。

「……もういいの? 私と喋っても」

 私はどうしても牽制から始めてしまう性分なようだった。それでも確認が必要だった。わだかまりは残したくなかった。

「もう大丈夫。それだけはありがとう」

 気まずい。そうなんだよかったね、視線を右往左往しながらそんな言葉をかけつつ私は内心ほっとしていた。

「私の何が知りたいの?」

 彼女は単刀直入に話を始めたがるようだった。無駄な探り合いをしないで済みそうで、少し体の緊張が解れる。

「……全て」

 何が? とわざわざ疑問符を付けて聞かれるから、私の脳はフリーズしてしまったようだった。面倒くさい女だと思われるんだろうなぁと我ながら思った。

「変わらずだね」

 彼女はそれを言ったきり、何かを考えるように黙ってしまった。

「グループワークの課題がめんどくさくなって気が立ってたの」彼女は横髪をかきあげて、「だからほっといて欲しくて。逆撫でされたくなかったから」

 私は一応彼女の行動に矛盾がないことを納得する。それでも、思い出すのはサークルの時に起こった三園先輩との不思議な繋がりだ。三園先輩といえば、木葉ちゃんと初めてサークルに訪れた時も変な感触がしたのを覚えている。

「納得できたよ」

 相槌がわりに私がそう言ったところで、彼女はあれを出した。

「秋風浩の本。もしかして忘れていったの青井さん?」

 ここで私はイエスと言うべきなのだろうか? 思考が急にクリアになっていくのを感じた。わざわざ「もしかして」をつけなくても確信度は高いくせに、と愚痴る。

「そうだよ。私のだよ」

「じゃあ、返すね」

 水面下で探り合いをしている気分だった。こんなあけすけな遣り合いはないだろうけど。どうボロを出さないか、どう秋風木葉に喋らせるか。私はそれを考える。

「じゃあ、見た?」

 彼女が俄に微笑む。

「なんのこと?」

 私も微笑んだ。彼女の瞳の奥の黒いものは全然笑っていなくて、ゆらゆらと待ち侘びる幽霊のように蠢いていて、そして黒ずんでいた。

「私、あの時パソコン開いたままだったの。それをみられたかもしれないって思って。結構秘密なこと書いていたから。個人情報って感じの」

「……その時私、」

「私が帰ってきた時には秋風浩の本が忘れ去られていたの。私はお手洗いに行っていただけだから、いなかったのは短時間だし」

 適当に誤魔化そうとすると、彼女が口を挟んだ。

 私は先ほど隠した秋風諷真の本を掴んで、見せる。それが返答になればと思って。

「何が言いたいの?」

 彼女はまだ腹の探りあいをしたいようだった。というより、早く断罪をしたかったのだと思う。

「本を忘れたのは確かに私だよ。パソコンを覗いてしまったのは悪かったと思ってる。けど、全部を見れたわけじゃない。これも本当」

 そう言うや否や、

「これ以上私の何が知りたいの?」

 凄みがあった。彼女の逆鱗に軽く触れてしまったような、それでいて静かな怒りでもあった。まだ決めあぐねている、とでも言うような。

「私が聞きたいのはこれだけ──」

 私が知りたいのは本当に一つだった。もう昨日の時点でイメージは出来ている。あとはそれを真実だとして信じて消化するフェーズに入るだけだ。

「あなたは秋風諷真なの?」

 彼女は顔をピクリとも動かさず、そうよ、と言った。そこに感情はなく、まるで最初から言うことを決めていたみたいな印象だった。

「高一の頃、三園先輩に勧められてサイトに投稿したの。書きはじめたきっかけも三園先輩の小説を読んだからなんだけれど。ぼちぼちとpvがついて、最初はそんなところで満足してた。公募にも出した。それも先輩に勧められて。その公募は何ヶ月かして受賞の知らせが届いた。でも断ったの」

 彼女は過去を整理するように、ゆっくりと語り出した。

「その前にある編集者から書籍化の打診が来て。そっちを進めていたから断った。そしてついに発売の日を迎えて、私は秋風諷真になった」

 これで文句はない? と訊くような言葉の区切り方だった。

「なんで諷真なの?」

 彼女は嘲笑の色を浮かべて言った。滲み出た冷笑を言葉に宿して──、

「男の名前の方が、都合が良かったから。ただそれだけ。あなたは騙されていたようだけれど。都合よく」

「……」

 言葉にできなかった。言い返せなかった。

「私と結婚したいだなんて。私は男じゃないのに。勝手に理想を重ねてる。あなたも有象無象の読者の一人だったのよ」

「それは、違う──」

「何が違うの。何も違わない」

「作者からしたら、そうなのかもしれない。でも私(読者)からしたら違う。私は本当に秋風諷真の作品を愛していて、一番の読者だって言える!」

「押しつけないで!!」

 一瞬でヒステリックな声になった。木葉ちゃんのその態度を初めて見て驚く。場の空気が一瞬でピンと張り、凍りつく。

「押し付けてなんか……」

「私の小説の一番のファンは私。私の小説は私だけのもの。それ以外は読者じゃない」

「読者を切り離して、なんになるの⁉︎」

 返しになっていなかった。それでも私は違う、と言いたかった。彼女は間違っている。私は間違っていない。

「読者が作品内で、何かを思うことは自由。私にだってそれくらい譲歩はできる。けれど……それを作者の方まで拡げないで欲しい」

 私を綺麗にも、汚なくにも染めないで欲しい。勝手に理想論を語らないで欲しい、理解した顔をしないで欲しい、──。

「なぜなら、私の小説は私のために書いているから」

 じゃあね、と告げられて彼女は去っていってしまった。私は一人、そこに取り残された。

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