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 二限は休講だった。今は月曜の十時過ぎ。課題日で先週提示された課題をやる時間になっていた。私は昼、三限と挟んで四限に授業が入っている。それまで私は大学に一人ぼっちで、一人で大学をぶらつくのは本当に悲しいので、部室に籠ることにした。秋風浩の小説でも読もうと、本も持ってきていた。浩輝は全休だかサボりだか、そんなことを言っていた。だからいない。自堕落な生活をし始めたようである。

 傘をバサバサと開閉して、表面に残っていた雨粒を振り落とした。紐でくるくると纏めて、杖代わりにする。

 薄暗い廊下を抜けると、部室もといサークル室がある。正式な名称はわからない。

 湿気が換気の悪い部屋に残っていた。梅雨特有の暑さも相まってこの部屋の環境は相当悪い。

 部室にはノーパソが取り残されていた。開かれた状態のまま、持ち主はどこかに行ってしまったらしい。テーブルの下、椅子の上に置かれていたのは見覚えのあるバックだった。

 記憶を辿ると、ピンときた。木葉ちゃんのだ。もしかしたら私と同じ授業を取っていて、同じく行く宛がないから私より先に来たのかもしれない。可愛いなと思った。いや同じことをしても私は可愛くないが。

 ふと、彼女のパソコンの画面が気になった。彼女は何を見ているのだろう、今の今まで木葉ちゃんにほっといてと言われたのを忘れていたが、その呪いがあったからこそ余計に私は気になってしまった。そう、だからそれを見たら部室を出よう。彼女が帰ってくる前に。同じ空間にはいたくないし、すれ違うのも嫌だ。

 彼女のパソコンはGメールの受信トレイを映していた。

『秋風諷真様

 お世話になっています。──編集部の……』


 全文を読む前に、パソコン側がスリープモードに入った。え、どういうこと──?

 何かが落ちた。手で摘んでいた秋風浩の本だった。せっかく読もうと思っていたのに。

 それからの私は何をするにも心ここにあらずといった状態で、気づいたら自宅だった。

 思えば、ピースは揃っていた。不自然すぎるほどに。しかし私は気づかなかった。秋風諷真は男だと思っていたからだ。今も信じられない、男だと思っている節がある。なんで?

 よく考えろ、と頭の中でかすかに私が言っている。時々息をするのも忘れそうになる。

 よく考える。まずは秋風木葉が秋風諷真ではないという根拠を。あれは木葉ちゃんのパソコンではないとしたら? 無理だ、私は木葉ちゃんのノーパソを授業中ずっと見ていたことがある。あれは木葉ちゃんのパソコンだった。

 それ以上の反論を見つけられなかったことで、私の推理は終了した。

「あ」

 部室に本を忘れていた。最悪だ。とてつもない失敗を犯したかもしれない。いや、本人が気付かなければ大丈夫だ。判断能力が自分でも目に見えて落ちているのがわかって、後悔と安心が何度も去来する。

 一体私はこれからどうすればいい? 騙されていた、という苛立ちは勿論あるが、失望したというのも大きかった。高校生の頃、理想の男は言わずもがな秋風諷真だった。理想はやがて幻想と化し、幾重にも渡る想像で一つの輪郭が浮かび上がる。二十代後半くらいの男性。整えられた顎髭を生やしているかもしれない。

 テレビに出るような有名アイドルとオタクの間には何も生まれないように、私と秋風諷真の間にも何も生まれないと思っていた。そこに関係性が築かれるとすれば、私が糸を捻って紐を作りそこに秋風諷真を結ぶことだろう、即ち私が小説家になることだけだと。

 私と彼(仮定して)に作品以外の共通項はないと思っていた。しかし、最大で最凶の、「性別」という共通点があった。

 秋風諷真という虚像と実像の秋風木葉を重ねる。天才という記号が木葉ちゃんの体に纏わりついた。それはとても陰湿で、菌が増殖するみたいに感じられて、そしてぴったりと秋風諷真という枠に収まった。秋風木葉が。

 そう言えば、とこの前出した仮説を思い出す。今となってはただの空論だが、真実に気付いても私はその全てを否定する術を持たなかった。秋風浩の娘、という説だ。

 秋風という姓は世間でもそれほど珍しくなく、私の地元でも一人はいたと記憶している。

 私はスマホで「秋風浩 娘 」と検索した。だが、残念ながらめぼしい情報は得られなかった。

 そこまで思考を一人歩きさせてわかったのは、私は忘れた本を取り戻さなきゃいけないことと、木葉ちゃんに気づいてしまったことを打ち明けなくちゃいけないことだ。

 上手くやれば気付いていない振りで済ませられるだろう。しかし、木葉ちゃんは本を置き忘れたのが誰なのかモヤモヤするはずだし、私は私で今までの痴態を思い返すので嫌だ。

 雨はしとしと、と降っている。気温は先週に比べると随分と下がっていたがじめじめとした気分は晴れない。

 私は突破口を見つけられなくて、虚空を見詰めた。八畳の一角、地震でひび割れた壁の染みに私は同情していた。

 私と秋風は近すぎた。突破口など見つける必要もないほどに。

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