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五月も下旬。温暖化のせいか、この日も二十度後半もある気温に苛まれながらも、先輩に指定された場所で待ち合わせをした。
〈カラオケでいい?〉
先日、どこに行くかラインで話した時に先輩がカラオケを提案してくれた。私はあんまり歌が上手なわけじゃないから躊躇われたが、思えば大学に入ってから一回も行ってなかったので行ってみるか、という気になった。
「おはよー」
気だるそうにして先輩は現れた。まだ眠そうで、電車の中でも寝ていたのが容易に想像できる。
「いやバイトでさ」
遅くまで続いたバイトのせいであんまり眠れなかったと先輩は語る。時間設定は私に任されていたから言ってくれれば朝の九時になんて設定しなかったのに。化粧はいつものようにバッチリと決まっていて、服装も先輩のイメージが崩れない程度には頑張っていた。私が頑張っているとか言うのは失礼だな……私は先輩と最初に遊びに行った時に、ショッピングモールで選んでもらった服を着回しているだけだから。
「バイトもその格好するんですか?」
「バイト? しないよ?」
その質問が来るのは予想外だったみたいで目を丸くしていた。
「そりゃあね、メイドカフェとかだったらありだろうけど」
メイドコスをする先輩を想像した。うん、悪くない。悪くないと言うか、もとのイメージとあんまり変わらないせいで違和感を覚えない。
「私は居酒屋だからね」
居酒屋姿の先輩は想像出来なくて笑ってしまった。
「っなんだよっ」
「いや、先輩がへいらっしゃい! って言ってるの想像したら面白くって」
なるほどねーと先輩は意外にも納得した様子だった。いや、それが術中にハマっているのか。
カラオケはビル四階ほどの高さで地下一階から二階までがカラオケで他の階には他のテナントが入っているようだった。
「意外と狭いですね」
地元のカラオケを思い出して比較すると東京もこんなもんかと思った。ドリンクバー制で、一階にジューサーバーがあり、地下一階の部屋を貰った私達はわざわざ階段を上って行かなければならない。
「東京はこんなもんだよ」
他の部屋は知らないが、予想通り狭めだった。それでも二人入るぐらいだったら問題ない。
一つだけ渡されたマイクを持たされていたのでテーブルの適当な場所に置いた。
「最初になに歌う?」
渡されたマイクを見詰めて私は数少ない脳内のプレイリストを再生した。
「『残酷な天使のテーゼで』……」
恐れ多くもカラオケの鉄板を最初から潰し、私には後がない。
七十八点というしょうもない点数をとったところで先輩にマイクを渡す。もうこうなったらマイクは貰わないぞと意気込んで。
「じゃあ、何を歌おうっかな……」
先輩も悩むらしく、デンモクを数分いじっていた。私はその先輩の悩んでいる顔に見とれていた。
「よし、これにしよう」と先輩が言ってカラオケの大きい画面に映し出された曲名は、『天国への階段』だった。
「レッド・ツェッペリンってバンドの曲。知ってる?」
「知らないです」
レッド・ツェッペリンはイギリスのロックバンド。すかさず調べたウィキペディアの検索結果にはそう書いてあった。
「先輩、洋楽とか聞くんですね」
「うん? まあね」
曲が始まるタイミングで話しかけてしまったせいで先輩が焦っていたが、そんな私にも優しく返してくれた。
洋楽なので歌詞にも英語が流れる。全てにルビが振られている。その節を歌う時間だけの短さでは読めるものも読めなくて、何もわからない。
先輩が歌う。先輩の清らかでゆったりとしていて、それでいて安心のするソプラノだった。上手い、と鳥肌が立った。上手すぎる。私がフェスとか行ったことない人間だからなのかもしれないが、プロにも劣らないと思う。その歌声は、ありありと歌の持つ雰囲気を伝えてくれて容易く心に浮かんだ。そして色があった。そしてそして、なによりめちゃくちゃカッコいい。
「聞かない私には全然わからないです。どんなところが魅力的なんですか?」
「んーと、わかんないところかな?」
「わかんないところ?」
「あとはありえないくらいかっこいい所」
「なるほど……」
わかんないところ、というのはなんとなくわかる。私にはこれがなんだか、わからない。けれど、そのわかんなさも相まってめちゃくちゃカッコいい。そうか、私に足りなかったのは酔うほどのかっこよさだったのか。すとんと胸に落ちてくるようだった。
続けて先輩が何曲か歌った。どれも洋楽だったけれど、それを聴いた私は敬神に似た強い念を覚えた。
「そろそろ雛ちゃんも歌わない?」
連続で歌いすぎて疲れた先輩が少し息を切らしながら言った。その前もマイクを私に向けられたけど、断っていた。流石に悪いなと思って受け取る。しかし思い直して、あんな歌の後に私の歌を聴かすほうが悪いなと思い始めた。
「へえ、ヨルシカ」
私は無難にそれを選んだ。若者に広く知られているし、先輩とも一緒に歌えるだろう、そんな考えだった。
「ヨルシカ聞くんですか?」
「まあね」
あんまり聞かないみたいだった。
「いい曲多いよね」
そうなんです! と私は同意した。
ふと──先輩が口に出した言葉があった。もう何曲か歌った後で、先輩の表情には疲れが浮かんでいた。
「──他の誰かになりたがることは自分らしさの無駄遣いだ」
「誰の言葉なんですか?」
「カート・コバーン」
「へえ」
「聴いてみると多いよ。いい曲だよ。私にはわからないことが多いけれど」
先輩の言ったことが、頭から離れなくて、私はその夜ネットの海を漂うニルヴァーナの曲を聴いた。漂うと言っても漂流というよりは、ちゃんとそこにあった。どこかに行き着いているというよりは、陸に錨を下ろしているように感じた。珍しく、コメントをスクロールしてみた。〈これがロックンロール〉〈本当にかっこいい〉ファンは根強かった。
──他の誰かになりたがることは自分らしさの無駄遣いだ。
「先輩は、その言葉好きなんですか?」
「……どうだろ、よくわからないな」
考えたこともなかった、先輩はそう言った。本当に口を衝いて出たみたいだった。
ヨルシカの藍二乗が流れる。私は一生懸命歌を歌った。私に足りないもの。本当にカッコよさだったのか? そうじゃないだろ。私はなんで、先輩にカッコよさを感じたのか。
わからない。いや、わかっている。それを言葉にしてしまうのがとてつもなく怖かった。惨めになると思った。
「先輩って歌上手いですよね」
三時間みっちり歌って、私達はここで昼食をとることにした。さっき先輩が歌ってくれた曲の熱気がまだ残っている。
「歌上手い? そうなのかもしれないね」
九十七点と表示されたのを見て先輩は肯定した。客観的な人間を介さない数字だ。
「歌手とか考えたことないんですか?」
「ないね。そんな歌うまいと思ったことないし」
さっきからずっと質問攻めだったので先輩が怪訝な顔をする。何が知りたいの? といった顔だ。
「浩輝とかなら気付いてるはずじゃ……」
「行かないもん。カラオケ。姉弟だけどね」
「そうなんですか……」
「浩輝は私のこと嫌いだからさ」
「そんなことないです。そんなこと」
力強く言ったつもりなのに思い出して尻すぼみになる。浩輝は確かに羨ましいと言っていた。けれど、無様だと。
私は力なく返答し、先輩はほらね、という顔をしたそんなことないですよ、必死の抵抗をした。
「さっきの言葉」
「カート・コバーン?」
「他の誰かになりたがること。私は無駄遣いだとは思わない。それが不器用でも、自分のあり方だって思うなら。皮肉だと思うよ、自分で言った言葉なのに自分に一番返ってくる。それでも私はやめないと思う。だって、雛ちゃんが肯定してくれたから」
先輩はバックから紙の束を取り出した。私の小説だった。
「そんな……」
自分の小説がロックバンドの言葉に匹敵するとはどうしても思えなかった。
「ありがとう」
凛とした声は、言葉に重みを持たせるために故意的に低くしていた。女性の気持ちの良い低音が私の胸に響いた。
少しして頼んでいたラーメンが届いた。二人とも醤油ラーメンだった。
「美味しい?」
「カラオケ店の味って感じです」
私は先輩の口調が素になっているのに気付いた。今更だったかもしれない。いつからだろう。先輩の素を見せてくれるのが私だけだったらいいなと不意に思った。
「先輩、私といる時結構素ですよね」
きりっとした口調で先輩が言う。
「どんな私でも好きでいてね」
「はい」
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