第2話 色情時雨

「相変わらず禍々しいわね」



 時刻は17:20分頃、智景と僕は旧校舎の外観に圧倒され息を呑んでいた。

 霊なんて信じない僕でも分かる。

 首筋に異形の爪先があてられているのを。



 間違いなくここには何かがいる。



 そんな不安が脳裏を過り警告を発してくるが、智景の手前カッコつけるのを優先した。



「今開けるから」


 古臭い鍵を正面扉に差し込みノブを回すと、まるで待ち構えていたかのようにすんなり開いた。


「先生から離れないでね」

「はい」


 彼女は背後の僕を目の端で認め、決意を固めたようにそう言い先陣を切った。



 ギィ・・・



 半開きの扉からするりと身をねじ込ませ、いつの間にか持っていた懐中電灯のスイッチを点ける智景。


(うっ)


 内部はなんというか、初めてお化け屋敷に訪れたものとも違う異様な雰囲気に包まれていた。


「ついてきて」


 彼女の背中にピッタリ張り付き埃っぽい昇降口、靴箱の間を通り目的地を目指す。

 その間に僕はこの場所について考えた。



 まずここは異界だ。



 気怠い暑さと湿気に支配されていた屋外とは打って変り、室内は完全な適温と乾燥が保たれている。

 それなのにじんわりと、首筋と二の腕に水滴が浮かび上がる異常。

 風なんて通ってない、密閉されたかのような大気の静寂さ、静かすぎて時が止まっているのではと疑うほどに猫の子一匹の気配も感じ取れない。

 そう、寝る前の自室の静けさとは全く異なる沈黙、音を発するものが何もないせいで、足音で軋む古板のいちいちが防犯ブザーの怪音のように響き渡り耳の中を劈いてくる。

 静かすぎて五月蠅いとはよくいったものだが、段々とそれも薄れてきた。

 衣服の擦れる雑音と荒くなる呼吸に心臓の鼓動、煤けた窓から僅かばかりに差し込む夕日と懐中電灯の明りだけを頼りに前へ足を進める。



 ギィ・・・ギィ・・・



 なるべく音を立てないようにした、会話なんて一切しなかった、ここにいる僕達以外の誰かにバレてしまうかもしれないから。

 この時ばかりはそんなオカルトを受け入れて黒スーツの後姿、智景のうなじ越しの景色だけに意識を集中させる。



「着いたわ」

 一階の角の部屋、そこの上部に光を当てる智景。

 表札には3-5と掠れた文字が彫ってある。



 ガラッ



 鍵の掛かってない扉を開けると、廊下よりも幾分かはマシな朱色が僕らを出迎えてくれた。

 教室内は物置になっているのか手元の紙袋と同じような袋が机上に置いてあって、僕は適当に重ねといてと指示される。

 重圧から解放されたようにドンと荷物を置くと、机の上に積もっていた埃が宙を舞いワイシャツに粒子が付着した。


 僕は智景を見遣ると、彼女は教室端のある一辺を見つめ、近づいてゆく。


「なんです?」

 気になったので追従すると、



 そこは不思議なくらいに綺麗だった。



 他の机は袋が置かれ埃っぽくボロボロでいつ脚が折れてもおかしくない様相を呈しているのに、智景が見下ろすその机は新品、というよりもまだ現役で使われているような小綺麗さがある。


「これ」

 そして僕は、懐中電灯に照らされたある一冊のノートを認める。

 智景はそれを躊躇いもなく取り上げると、表紙をまじまじと検めた。



『色情時雨』



 古ぼけているし手垢のせいなのかところどころ茶色に染まったノート。

 そこには四文字だけが綴られていて、他には何の情報もない。


「懐かしいわ」

「えっ??」

 彼女を見るとまるで何年も人生を共にした旧友と再会したかのような表情になっていた。


「これね、先生の友達のノートなの」

「そうなんですか?」

「うん、ずっと探してたんだけど、どうしてここにあるんだろう」

 彼女は最初のページからパラパラと捲り始める。

 内容までは読めないが整った文字で書いてあり、これを書いたのは嘸かし頭の良い人間なんだろうなと推察させた。


「これはね―――恋愛小説なんだ」

「へぇ」

「主人公が大好きな女の子のために、頑張るお話」

「それは、素敵ですね」

「凛久くんは恋をしたことってある?」

「僕ですか??まぁ・・・ありますけど」

 その態度を認め智景はくすりと笑みを零す。


「その感じだと叶わなかった?」

「そうですね、魁人先輩にとられまして」

「ふふ、霧咲くんカッコいいものね」

「先生もああいう感じが好きですか?」

 智景は最後のページまで捲り終えると本を閉じ、



 ギュ



 無防備に垂れ下がっていた僕の手先に、自身の指先を絡め合わせてくる。



「えっ」

 余りに突然すぎて驚いたが、彼女は続ける。


「わたしね、初恋の人に今でも恋してる」


 そう言ってこちらに向き直り、物欲しそうに身を寄せてきた。

 目先には智景のまだ幼さ残る童顔が迫り、踵を上げ体重を前面に傾けたせいかタイトなスーツに押し込められた脂肪の塊が僕の胸部により圧し潰されている。


「せんっ・・・せ?」


 部室での眞とは異なる蕩けた表情で女性のなんだともいえない色気を放つ智景。

 僕は急に怖くなって動けなくなり立ち竦んでしまう。


「その人はこのノートの中に閉じ込められてる男の子で―――」

「凛久くんにとってもそっくりなんだ」


 陽はもう完全に沈もうとし、外界の顔色が移り変わろうとしている。

 それなのに懐中電灯に照らされた一角、この付近はやけに眩しくて、智景の顔立ちの一つ一つが手を取るように分かった。

 それぐらい近い距離で、艶めかしい言葉を囁いてくる。


「わたしのなにもかもは初恋のあの人のためにとっておいてるの」

「だからもし君さえよければ―――」


 淫靡なる唇が忍び寄る。

 僕は蛇に睨まれた蛙のように硬直し、



「んっ・・・」



 わたしの初めてと、彼の初めてが交わることとなった。



 ♦♦♦♦


 これは夢なのか現実なのか、担任教師で文芸部顧問の弓月智景と接吻を交わしている。

 男女共に人気があり年の近さからか姉のように慕われている彼女と、冗談では済まされないことをしているのだ。


(柔らか、あまったるい)


 僕よりもほんの数センチ背が低い彼女は、目を瞑り口先の感触を味わっている。

 僕も不器用ながら受け入れてしまい、その接吻はもう一段階上の深みを帯びることとなった。


(これがっ、キスなんだっ)


 常識的に考えれば断るのが普通なのに、何かの魔力にあてられたかのように思考がまとまらず、脳内に色欲が充満していく。

 例えば穢れを知らぬ幼子が下賤な世界に初めて踏み込み、のめり込んでしまうような。

 殿前凛久は霧咲魁人のような生き方はできない、その宿星の下の人間ではないから。

 別段容姿が優れているわけでもないし、性格も優しさに重きを置いたつまらない人間、交友関係も華やかではない。

 性欲は中の下で、魁人と付き合う前の美恋を狙っていた時は彼女以外の異性になんて靡かないって信じていた。



 でも、違ったのかもしれない。



 僕も色男の彼と同じで、一度これを知ってしまえば後はチャンスがあるごとに狼に変身する子羊だったのかもしれない。



「んっ、くちゅはぁっ―――」



 現に智景と禁域を踏み越えて、愉しんでしまっている。


 異性のことを初めて知った、意識してしまった。

 初めての接吻は何事にも代え難いほどに心地良く、下腹部にどんどん血流が集中される。

 自分だけのものにしたい、離したくないという欲求に支配され、依然として静謐に包まれたこの教室は色欲の限りに彩られ淫らに埋め尽くされる。


(こんなの―――)


 意中の相手ではない相手と接吻をしてもこれなのに、眞や愛華、それに先輩である英玲奈や亜希と唇を重ね合わせたらどうなってしまうのだろう??

 少なくとも目の前の女性に教えられたせいで、僕は以前のようなスキンシップを望めなくなってしまうかもしれない。

 眞のなんてことない肉体の触れ合いもいちいち興奮して抑えが効かなくなるかもしれない。


「ちゅぱっ、ぴちゃっ」


 粘液混じりのベロは別の生き物のようにうねりまわっていて、お互いの口腔の隅々までをも犯し続けている。

 鼻腔突き抜け脳髄一杯に広がる智景という存在に、体の芯が疼き僕も体重を前にかけ彼女を覆うように貪り喰らう。


 ♦♦♦♦


「ぷはっ」


 息もできないほどに噎せ返る甘美な汁を味わった凛久。

 唇を離した智景はぽぅっと目の前の少年と初恋の人物を重ね合わせているのか夢見心地に浸っている。

 そして荒い息遣いを鎮めていると、彼女の指先は凛久のもっと下を、指し示した。


「すごいね・・・」

「ごめんなさい」

「謝ることなんてないってば・・・」

 密着する上半身、だらしなく開いた智景の口元から、光沢を帯びた粘液が垂れ落ちて、彼女のブラウスに淫らな水溜まりを描く。





「ねぇ凛久くん―――お願いがあるんだけど」





 智景は凛久の腫れた部分を拭うように擦りながら何かを提案してくる。



 少年は抗えぬ魔力に身を委ね、堕ちる覚悟を決めた。



 ♦♦♦♦


 今回はここまでです、読んでいただきありがとうございます。

 ほぼ毎日更新でやろうと思いますので、明日もお楽しみに。


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