第3話 蛹になるよりもっと前

『君自身がさ、小説のモデルになればいいんだよ』



 もう何分ほど経ったのだろうか?

 智景は切なそうに身を震わせる凛久をからかいながら自分が考えていることをお願いした。

 彼はうんうんと赤べこのように頷くが、その実は早く欲望を放出させたいだけである。

 しかし時間気切れは目の前に―――。


「桾沢先生も心配してるかもしれないし、戻ろうか」

 あどけなく屈託のない笑顔を生徒に振りまいていた智景は妖魔のように彼を焦らし、厭らしい笑みで攻め立てる。


「でも―――」

「大丈夫だよ、凛久くんはきっと主人公になれるから」

 ここに来る前に眞に噛まれた首筋の歯形を、彼女は癒すように舐める。

 その度にブルブルと快感の波が押し寄せ、果ててしまいたかった。


「お願い、覚えておいてね?」

 智景は懐中電灯とノートを回収し、我が物顔で教室を出る。

 僕は旧校舎の暗闇に取り残されて早く追いかけなきゃいけないのに、この昂ぶりを鎮められない。


(卑怯だ)


 自分から生徒を誘惑した癖に生殺しにするなんて。


 ゴクリ


 凛久は仕方ないと彼女の唾液交じりの唾を飲み込み、遠のく足音を追いかけた。


 ♦♦♦♦


「はいこれ」

 職員室前であのノートを渡される。


「帰ったらちゃんと読んで、感想を聞かせてね?」


 智景の最初のお願いはこうだった。


『ノートに記されている小説を読破し感想を述べること』


 いかにも文芸部らしい宿題だ。


「きっと凛久くんの助けに―――インスピレーションが浮かぶだろうから」


 妖艶な雰囲気と興奮冷めやらぬ紅潮気味の智景はそれだけ伝えると、


「明日は金曜日だから、絶対に寝坊も休みもしないでね」

「はい・・・」

「それじゃあね」


 彼女は踵を返し職員室に戻る。

 ただ一人現実に放り出された僕はノートをカバンに仕舞い、澄星海高校を出た。



(あれは一体何だったんだろう?)

 今思えば僕も彼女も様子がおかしかった。

 本来ならばあんなことをするはずもない清純な先生なのに―――。


(もしかして・・・)


 彼女の本質は淫乱なのかもしれなくて、裏では色々な生徒、或いは教師に色目を使っているのかと考えると腑に落ちるが、奇妙な喪失感に襲われることとなったのでこれ以上考察するのはよした。


(でもそれでも、あの瞬間は僕のものだった)

 人気も少ない住宅道、凛久は初体験の感情と揺り動かされた恋心に気が付いてしまう。

 都合がいいかもしれないが、接吻を交わしただけで智景を見る目が変わってしまった。

 今は一人の生徒と教師とから、男と女になってしまったのでは?と心配しその非現実的な背徳感に興奮してしまう。


 悶々としたまま凛久は自宅を目指す。

 カバンのノートが息づくのを感じながら。


 ♦♦♦♦


「ただいま」

「お帰りなさい、遅かったじゃない」

「うん、ちょっとね」


 殿前家は平凡な家庭だ。

 父と母と僕の三人暮らしで、動物を飼ったりしたことはない。

 この家に住んで十数年経つがもう引っ越すこともないだろうし、地元が好きだから僕も就職するまでは住み続けようかななんて思ってたり。


「手洗ってきて、ご飯だけ食べちゃって」

「はーい」

 母に促され洗面所に赴く。

 そこで鏡を覗いたら、自分がえらく疲労しているように見えた。

 いや、なんだか垢抜けたともいえるような、とにかく自分が自分ではないような気がし恐くなって丹念に顔を洗い再度鏡を見ることなく横付けのタオルで水気を拭きとり二階の自室へ駆け上った。


「ふぅ・・・」

 ドア横の電気を点けるといつも通り安心できる光景が広がっていた。

 僕はブレザーとスラックスだけハンガーにかけ、あとは洗濯袋に放り込み半袖半ズボンに着替えることにした。

 それにしてもこの時期は蒸れるなぁ。

 閉め切られた窓際に近寄りカーテンをシャッーと全開にし、序で窓も引く。

 夜は涼しい風が吹いているようで心地の良い新鮮な空気が肌を撫でながら入室してきた。


「んっ」

 隣の家も明かりが点いている。

 そして一階の風呂場にも・・・。


「・・・」

 そこで初めて僕は、あらぬ妄想をしてしまう。

 隣家は姫宮姉妹が住んでいて、この時間は大体姉の眞が入浴している。

 現に小気味良い鼻歌のリズムが小さな高窓から漏れてきていた。


 ゴクリ


 旧校舎の興奮がまたぶり返したように、白くベタついていたボクサーのパンツが再び気にかかる。



『早く降りてきてー』


「!?」



 刹那、一階から母の声。


「うんーーー!!!」


 僕は首を横に振り自らを戒めたあと、荷物も床に置いたままリビングに向かうことにした。


 ♦♦♦♦



「色情時雨ね・・・」



 夕食に入浴も済ませ寝る準備万端といった身形の凛久は、カバンの中のノートを思い出し手に取った。


(参考にって智景先生は言ってたけど、どんな話なんだろう?)


 パラリと表紙を捲ると、表紙裏には登場人物の詳細が描かれており、隣のページから本編が読めるような作りになっていた。


「ふぁーあ、ま読んでみますか」


 僕は軽い気分で勉強椅子に体を沈め、読書を始める。

 どのくらいで読了出来るか分からないが、気軽に楽しもうと軽い気持ちで。


 ♦♦♦♦


「・・・うーん」


 綺麗に清書された文字列に清廉な筆跡。

 まるで売り物と見紛うほどに整えられているそれを中盤まで読み進めスマホを光らす。


「そろそろ寝ようかな」


 思ったよりもてこずったので今日はもういいかと思い椅子からベッドに体を移す。

 ちゃんと真っ暗にするのも忘れずに。


「ふぅ・・・」


 睡眠をとる前に、今日の出来事とノートの内容を重ね合わせてみた。

 とはいっても物語の話ではなく、智景の友人の考察。


 確かに彼女の言っていたことが分かったような気はする。


 主人公は実は男子ではなく女子で、彼に想いを寄せる内気な少女。

 性格の暗さからクラス内でいじめに遭っていたところ件の少年に助けられ、好意を寄せていく。

 その彼はというと、色恋沙汰のいの字も知らないような、例えるなら切り出したばかりの樹齢若い大木のような芯がしっかりとした紳士的な人物で、クラスの誰からも好かれるような性格をしていた。

 しかし寄せられた好意に気付かず、何人もの女子に虎視眈々と狙われている。

 そう、彼が彼女を助けたのも根底にある揺るぎない正義感からくるものであって、助平心の一つも持ち合わせていなかった。


 少女はいじめっ子の中に彼のことを狙う女子がいるのを知る。

 折角のチャンスを逃すまいと有象無象の奴等から抜け駆けし、遂にその小さな蕾に花咲かせることが出来た。

 このまま二人は永遠に結ばれるかと思われた。


 だが、違ったのだ。


 初めてのデート、初めての手の繋ぎ合い、初めての接吻に、初めての性行為。

 若さに身を持て余した彼の健康で雄雄しい肉体は、女子の味を覚えてしまった。

 この気持ちに嘘偽りはないはずなのに、毎日毎日彼女と交わっても満足いかなくなる。

 彼女もそのことに気が付いていた。

 だからこう言ってしまったのだ。



『ツバサくんはとってもいい人だよ、でもね、わたし以外の女の子とも触れ合うべきうお』


『そうすればもっと素敵で格好良くなれるだろうから』



 付き合うまでの出来事に付き合ってから半年の軌跡が描かれる前編、若者の心情と葛藤が緻密に描かれていた。

 メインは私とツバサなのだが、付き合いだしてから彼を主観とした交友関係が描かれている。


 二人は恋人同士だということを公言していない。


 彼は身の潔白さや信頼を示すためにも公言したいようだが、同時に濫りに言いふらすべきではないのかと悩む。


 そして不透明さと隠匿性が利用され、彼は獲物を探すこととなる。


 本気で浮気相手を好きになってしまっても構わないという彼女の言葉に踊らされながら・・・。



「・・・」

 そこまでは読んだが、正直先の展開は知りたくない。

 僕が目指していたのは純愛小説で、魁人のような恋愛事情を見せられるつもりはないから。

 でも、彼の肉欲の果てにあるものは何なのか?

 それは初めての彼女に対する途切れぬ愛なのか、はたまた異性を誑かす色欲塗れの浮気心なのか?


(どうして彼女はそんなことを言ったんだろう?)

 飽きたのだろうか?身の丈に合わないと思ったのだろうか?体よく捨てるための方便?それとも互いの関係を確認するため?


 本当は断って欲しかったのだろうか?それとも望んだのだろうか?

 行動の正当性が見いだせず脳が混乱する。


(駄目だ、明日考えよう)

 凛久は切り替わる主人公に身を重ねてみて、智景の言葉を思い浮かべては消す。


 そして熟考する、その言葉の意味と、それを行える人間かどうかを。



(僕がツバサくんだとして、いじめられっ子の主人公・・・ヒロインは誰になるんだろう?)



 脳裏に一人、同じ部活の彼女が過った。



 ♦♦♦♦


 今回はここまでです、読んでいただきありがとうございます。

 ほぼ毎日更新でやろうと思いますので、明日もお楽しみに。


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