恐怖について
ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは、作中(クトゥルフの呼び声の冒頭)で知識を得ることによる恐怖を語っている。
無知は安寧であり、知識を得ることは狂気に陥るきっかけとなるわけだ。
これは、人間はちっぽけな存在であり、旧支配者が帰還する……いやそれどころか見るだけで、狂気に陥る(または致命的な光を遁れて、新たな暗黒時代の平安と康寧のなかに逃げ込む)程度の存在だということを示唆してる。
さて、では恐怖とは狂気に陥ることだろうか? という疑問がある。
好きなホラー作家に小林泰三さんがいて、彼もラヴクラフトに影響された玩具修理者という作品を書かれている。
小林泰三さんが兆という作品を書かれているが、それを読んでふと思ったのが、
恐怖とは兆しではないだろうか?
要するに狂気に陥ることではなく、狂気に陥る兆しこそが恐怖の極みではないかということだ。
例えば、死ぬことは、意識が一手遅れて処理される以上、知覚するのは生き返った後になるだろう。生き返ることがないなら、死ぬことが意識されることは本人は永劫にない。わかりやすく言うと眠る瞬間は認識できずわからないが、眠ったことがわかるのは起きた後になるということだ。(夢で眠ったことを認識する場合もあるかもだが、死後にはおそらく夢はないだろう)
死の恐怖を書くならば、死ぬかもしれないことを想起され、その兆しを書くことがその恐怖を最大に描くことではないかというわけだ。
死とか大きなことだけでなく、失恋とかもそうじゃないかなと思う。
振られることが怖いではなく、振られるかもしれないという未来予測、すなわち兆しが怖いといういうことかな。
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