第8話 溶かす腕

 島田純一が神と出会ったのは、一週間ほど前の事だ。

 心労から体を壊し、仕事を失った純一に家族の風当たりは冷たかった。長年連れ添った妻も、高校生の娘も彼の事を役立たずと罵った。

 二人は純一を邪魔者扱いし、口も利かなくなった。家に居場所を失い未練たらしくスーツを着て朝早く家を出る彼は、近所の噂の種となってしまった。


 家に帰りたくない、そんな思いを抱えながら夕暮れの公園に純一はいた。

 人影の無くなった公園を、赤い血で染め上げたような夕日が照らしている。

 

 純一は不意に泣き出しそうになっていた。

 大学を卒業し二十年働き続けた結果が今の自分だと思うと、人生が無意味で無価値でどうしようもなく救えないものに思え、ひどく惨めな気持ちになったからだ。


「俺の人生って……なんだったんだろうな」


 答える者のいない問いを、純一は吐き出した。

 風が彼の頬を撫でる、心に僅かに残った熱を奪うような、いっそ死んでしまった方が楽なのでは無いかと人に考えさせるような冷たい風が。


「こんばんは」


 そんな風とよく似た冷たさを含んだ声が聞こえ、純一は声の方を見た。

 

「少し……お話よろしいでしょうか?」


 純一の深い絶望と後悔、そして泥のように心の底に溜まっていた怒り。

 それは神を呼び寄せた。






「おお、やっぱ中々にえげつない能力だね」


 マガズミは笑っているが、目元は嫌な物を見てしまったように歪んでいる。

 顔を僅かに曇らせる程度で済んでいるマガズミとは違い、洋平は口を押え吐き出されそうになる悲鳴と、胃から逆流してきた朝食を必死に抑え込んでいた。


「何だ……あれ」


 顔を溶かされた死体の髪から男の手が離れる、ゴトンと大きな音を立て死体の頭が床に打ち付けられた。

 溶けた顔の一部が、衝撃で辺りに少し飛ぶ。


「お前が……殺したのか?」


 洋平の問いに男は一瞬目を見開き、そして自分が殺した男の死体を見た。


「ああ、俺が殺した。大きな……大きな声で騒いでたなあ……助けてくれー……許してくれーって……」


 恍惚とした表情を浮かべる男、死体とこの男さえいなければ高級感のある小奇麗なリビングとキッチンのはずなのに、この二つの異物のせいで現実から切り離された、非日常的な空間へと変貌させられていた。


「どうして殺した?」


「そんなん聞いてどうすんのよ? こいつは殺したくて殺した、それだけでしょ」


 男は洋平の顔を見た。冷や汗を滲ませる少年の目を見ながら、男はポツポツと話し出した。


「俺はな、ずーっと働いてきたんだ。文句も言わずに雨の日も風の日も働いたんだ……でもなこいつが……こいつが来てから全部おかしくなったんだよ!」


 最初こそ静かに話していたが、突然声を荒げ床に転がった死体を蹴りだした。

 

「仕事も! 自分のミスも! 全部に俺に押し付けて! 手柄は全部自分の物にしやがって!」


 死体を蹴り続ける男を見る洋平の足は震える、彼は大の大人が大声で喚き散らしながら人を踏みつける姿を初めて見た。

 それは彼の知る大人の姿とは、大きくかけ離れている。


「だから殺した、全部全部こいつが悪いんだよ。お前も……俺の邪魔をするんだろう?」


 男は洋平に向かって走り出す、自分に向けられた手をギリギリで洋平は躱した。勢い余って男はソファーに突っ込む、男の手が触れた部分が煙を立てながらドロドロに溶けた。

 

「アンタも早く力を使いなよ」


 その言葉で洋平は自身の愚かさを呪った、ショッピングモールで自分が刃を使って戦った事は覚えている。

 だが無我夢中で、どうやって能力を発現させていたのか覚えていなかった。


 体を起こした男は、再び洋平に向かって無茶苦茶に手を振り回す。その手が触れた場所は、材質を問わず溶けていく。

 もしあの手に掴まればどうなるか、それを想像するのは難しくない。


「くっ……そ!」

 

 床に落ちていた本を投げつけ、洋平は転がるようにしてリビングを出た。

 広い庭に面した和室に転がり込み、扉を閉めた。だが男がゆっくりと和室に向かって来ているのが扉の向こうを歩く男の足音で分かった。


 鍵は閉めたが時間稼ぎにもならない、洋平は荒ぶる自分の息を必死に抑えた。

 マガズミは必死の形相をした彼を見て、ニコニコと笑っている。


「おい! 俺の力はどうやって使えばいいんだ!?」


「ん」


 マガズミは洋平の右側に立ち、左手を差し出した。

 その行動の真意を洋平はすぐに理解できない、ふざけているのかとさえ思ってしまった。


「何してんだよ」


「死にたくないならアタシの左手を掴んで」


 洋平は右手でマガズミの左手を掴む、いずれ殺し合う二人は並んで手を繋いだ。

 熱を持った柔らかい手に洋平は驚く、もっと冷たい手を想像していたからだ。


「そのまま、思いっきりアタシの手を引きちぎって」


「……はあ!?」


「早く、時間無いよ」


 マガズミの言葉を洋平は全く理解できない、迷う洋平の目の前にあった扉から腕が突き出した。

 男の手は宙を掴もうとしているかのように動いている、どんどん扉は溶けていき男の血走った目が大きくなっていく穴から見えた。


 もう迷っている時間は無い、洋平は勢いよく右手を振る。

 抵抗は無かった、まるで粘土を千切るように簡単に恐ろしいほど簡単にマガズミの左手は肩から千切れた。

 左手は形を変え、刃に変わる。刃を握る洋平の手は痛み、握った箇所から血が滴る、その時になって洋平は初めて自分の力をまじまじと見た。

 親友を犠牲に手に入れた、痛みと流血を伴う剥き出しの刃が彼の力だった。

 


「さ、ぶっ殺してやんなよ」


 千切られた断面からは血が噴き出し、地面を赤く濡らしている。だがマガズミの顔から笑顔は消えない、今までと変わらない笑顔をずっと浮かべている。


「もう逃げられないぞ……殺してやる」


 男は扉を破壊し、和室に入って来た。

 やるしかない、洋平は覚悟を決め男に切りかかった。男は先ほどまで無かった彼の反撃に反応できない、刃の切っ先は左鎖骨を掠め男の胸に傷を付けた。

 斜めに付いた傷から血が流れ出す、男は虚ろな目で自分の傷を触り、人差し指と親指で自分の血を少し弄ぶ。


 男の傷は浅い、洋平は自分がもっと深く切り込めなかった事を後悔した。人を切る感覚は熱を帯びて右手に残る、それを心地良く思えるほど彼は戦いを楽しんではいない。

 できる事なら一撃で、それが洋平の本心だった。


「あ~あ、浅いよ。もっと気合入れてやんないと」


「るっせえ!」


 余裕の無い洋平とは違い、男には余裕があった。

 男は何一つ恐れてはいない、人を殺す事も自分が傷付く事さえも。


「次だ……次で終わりにすれば……」


 男は前へ出た、そして洋平の迷いの込められた斬撃を躱し腹に前蹴りを食らわせる。吹き飛ばされた洋平は庭に通じるガラス戸を突き破り、地面に倒れ込んだ。


「うっ……ぐ」


 こみ上げる吐き気に任せ、胃の中身を芝生にまき散らす。腹は脈打つように痛む、洋平は吐き気と経験した事の無い痛みに襲われ、動けなくなっていた。

 男はフラフラと庭に出ると、倒れ込んだ洋平の腹を更に蹴り上げた。

 

 動けない洋平をいたぶる、男はそれが楽しくて仕方なかった。



「こんにちは、マガズミ」


 和室からいたぶられる洋平を見ていたマガズミに声がかかる、声の方に振り向くとマガズミは顔をしかめた。


「やっぱマゴリーか」


 そこにいたのは、黄色のロングヘアーの女だ。

 身長は百七十センチほど、マガズミよりも大人びた顔をしており垂れ気味の美しい緑色の目が特徴的だった。ターコイズカラーのワンピースを着ており、ゆったりとした余裕ある雰囲気をまとっている。


「アイツの能力、あれアンタの趣味?」


「いいえ、あれは島田様の選択が産んだもの。私の意志は関係ありませんよ」


 マゴリーは艶やかな笑顔をマガズミに見せる、わざと大きく聞こえるようにマガズミは舌打ちした。

 彼女は、マゴリーがたったいま見せた胡散臭い笑顔が大嫌いだったのだ。


「それにしても……ずいぶんと痛ましい姿になられて」


 マゴリーの視線は、マガズミの左腕に向けられる。

 すでに血は止まっているがその断面は痛々しく、正視に堪えない。


「別に大した事じゃない、アタシはアンタたちとは違うから」


「そうですか、あまり無理はなさらないように」


 何も答えずマガズミは庭を見た、美しい芝生の上で洋平はいたぶられ続けている。

 純一が早々に力を使って決着をつけないのは、余裕と人をいたぶる快楽に酔いしれているからで、マガズミもその事を知っている。


「もう勝負は見えたのでは?」


「かもね、アンタにしちゃ良い駒じゃん。あのイカレっぷりは中々だよ」


「お褒め頂き光栄です、確かに想像以上ではありますね。過ぎた力と願い一つであそこまで狂えるとは、本当に御しやすい」


 マゴリーは純一を見る、公園で全てに絶望していた中年の男。

 ストレスを人にぶつける事も、物にぶつける事もできない中途半端な善性。そしてその奥に息を潜めている人間本来の凶暴性は、マゴリーにとって実に魅力的だった。


 自分の選んだ駒を満足げに見て笑うマゴリーの隣で、マガズミは込み上げてきた笑いを抑える事ができず、吹き出してしまった。


「何が可笑しいのですか?」


「いやね、あんたも可愛いとこあるんだなって」


「というと?」


「あの程度のおっさん捕まえて、喜んでるとこ」


「意味が分かりません」


「まあ見てなって」



 洋平は痛みの中にいた、朦朧とする意識の中で何度も後悔した。

 どうして一振りで決めきれなかったのか、どうして蹴りを避けられなかったのか、そんな手遅れな後悔ばかりが頭に浮かんでは痛みに潰されていく。


 

「ほら……立てよ」


 純一はわざと洋平に立ち上がる時間を与え、立たせた。

 そして時間をかけて立った洋平に、再び蹴りを入れる。洋平は庭にあった花壇に顔から突っ込む、口の中に土が入りにわかに感じていた鉄の味と混ざりひどく不快な気分になった。


「最高だ……俺は……今日この日の為に生きてきた!」


 純一は高らかに笑う、洋平は荒い息をどうにか整えながら顔を上げた。

 そこで一瞬、洋平は時間が止まったような感覚を覚えた。自分が倒れている花壇の中、視界を覆う花の中に誰かが倒れている。


 そしてその時になって洋平は初めて、庭に自分が先ほどリビングで嗅いだあの臭いが庭に漂っている事に気付いた。

 高笑いする純一を背に、洋平は立ち上がり倒れているのが誰なのかを確認した。


 花柄のカーディガン、庭に出ていたのか安いサンダルを履いている。

 栗色の髪は乱れ切って、まるで花弁のように広がっていた。

 倒れていたのは女だった、顔を完全に溶かされ無残な姿となって異臭を放つ肉の塊と化している。


 それだけでは無い、女の脇には青いパステルカラーの服を着た子供の死体も転がっていた。

 女が先に殺されたのだろう、子供はその死体に覆いかぶさるように死んでいた。


「ああ……それはなぁ、あいつの女房とガキだ。本当はあいつだけを殺そうと思ったんだ……でも庭先で楽しそうにしてるそいつらを見たら無性に腹が立ってよ。後は簡単だった、後ろから近づいて女の顔を溶かし、その死体に泣きつくガキを溶かしたんだ……凄い声だった……ママー、ママーってな……」


 そう言って男は笑う。

 洋平は目の前の死体を見た、子供の頭は後頭部の肉と皮が完全に溶かされ、白い骨が見えていた。

 吐き気を催すような光景、だが洋平は目をそらさずにそれを見た。


 思い出すのはあの日、ショッピングモールの惨劇。

 あの時もそうだった、あのフードの男も殺しを楽しんでいた。

 自らの力に酔いしれ、関係の無い人間を殺しまわっていた。


 洋平は確かにマガズミを恨んでいる、その気持ちは変わっていない。

 だが彼はもう一つ、恨むべき相手を明確に思い描く事ができた。


 洋平は体を純一に向け、ゆっくりと歩き出した。純一の浮かれた脳は、洋平が死体を見た恐怖から狂ってしまい、自分に殺されに来たと都合の良い考えをはじき出す。

 歩いてくる洋平に向かって純一は、左手を突き出した。



「終わりですね、ずいぶんともろい駒を選んでしまったようで」


 マゴリーがマガズミの方を見ると、その顔には笑みが浮かんでいた。

 

「そういう所だよ、アンタは人を見る目が無さすぎる」


「強がりはみっともないですよ、あの少年はすでに心が折れている」


「ばーか、折れるわけないじゃん」


 

 洋平は純一の手が触れるギリギリの距離までやってきた、あと二歩進めば手に触れる距離、じれったくなった純一は自身が進み洋平の体に触れようとした。

 

 腕が、飛んだ。


 純一の左手が宙を舞う、一瞬の間を置いて断面から血が溢れ出した。

 

「う……うわああああ! 腕! 腕が!」


 激痛にのたうち回る純一を、洋平が見下ろした。

 怒りと憎悪に満ち満ちた目、それは確かに純一を捉えていた。



「あいつは神を殺すって願った、筋金入りのイカレ野郎なんだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る