第9話 骨と灰

 部屋は重苦しい空気に包まれていた、誰もが涙を流すか顔を曇らせている。

 美羽の前には兄の骨と灰がある、聡の火葬は先ほど終わり今まさに骨上げを行おうとしていた。

 父は唇を噛みながら震える手で、母は涙を流しながら骨を拾う。


 両親の反応はごく普通のものだった、愛する息子を理不尽に奪われたのだから。痛ましい事件、その不幸の大きさは他の参列者たちも理解し胸を痛めていた。

 だからこそ美羽の態度は少なからず周囲の反感を買っていた、兄を亡くしたというのに彼女が泣いたり、悲しんでいる場面を参列者はおろか両親ですら見た事が無い。


 骨を拾い上げる時も顔色一つ変えず、淡々と骨を拾う彼女を周囲は冷たい妹だと非難の目で見ていた。


「まだ若いのに……可哀そうに」


「ご両親も辛いでしょうね……」


「でもあの子、自分のお兄さんが亡くなったのに顔色一つ変えないなんて」


「誰も泣いてる所を見た事がないそうよ? 仲が悪かったんじゃないの?」


 骨上げを終え、部屋をでた参列者たちはひそひそとそんな事を話していた。

 美羽にはそれが全て聞こえたわけでは無い、だが自分を見て顔をしかめながら話す姿を見れば、あまり良くない事を言っているというのはおおよそ見当が付く。


 だが美羽は顔色を変える事無く、ただ粛々と自分が遺族としてやらなければならない事をしていた。

 




「腕が……俺の腕が……」


 左手を抑えながら純一はうずくまっていた。切り落とされた左腕の断面からは夥しい量の血が流れ出し、緑の芝生を汚していた。

 

「う……うううう」

 

 純一は砕けそうになるほど歯を食いしばる、そうでもしなければ意識を保てそうになかった。これほどの痛みは経験した事が無い、今までの人生で積み重ねてきた痛みを一気に味わったとしてもここまででの痛みではない。


 純一の腕を切り落とした斬撃は、鮮やかだった。

 刃は左前腕の中央から先を切り落とし、斬られた本人がその事実に一瞬で気付く事のできないほど完璧な一振り。

 それは洋平の持つ刃の凄まじいまでの切れ味が可能にした、偶然の産物に過ぎない。

 彼は今までそういった剣術を習った事は無い、あくまで超常の力を手に入れただけの人間だ。人を斬る事に慣れているわけでも無い、ただの高校生である彼が何故この土壇場で最高の一振りを見せる事ができたのか。

 それを知るのは、この場ではマガズミただ一人だけだった。


「やるじゃん」


 洋平は、自分でもどうにかなりそうな怒りに支配されていた。

 マガズミと契約したあの日に感じた怒り、今すぐにでも相手を殺さなければ自分がどうにかなってしまいそうな怒りを内に秘めて洋平は純一を見た。


 目の前で呻く男に一欠けらほどの情すら抱かず、ただ見ていた。

 腹には今だに鈍い痛みが居座り、口の中は土の味が広がっている。だがそんな事はどうでもよかった、先ほど繰り出した鮮やかな斬撃すら洋平はどうでもよかった。


「なあ……あんた一体何を……何を願ったんだ?」


 洋平はどうにか口を動かして、細い声を絞り出した。

 喉が渇き、舌も上手く動かない。それでもどうにか洋平は声を出した。


「俺! 俺はただ人の顔色を気にしなくていい世界にしたかっただけだ!」


「贄は? あんたは何を犠牲にしたんだ?」


「娘と嫁だ! ひひっ……あいつら俺を邪魔者扱いしやがってよ! 俺がどんな思いで働いてたか知ろうともしなかったくせによぉ!」


 純一は痛みと出血でほとんど錯乱状態に近かった、意味も無く笑っていたが洋平の問いにしっかりと答えた。

 純一の口から大量の唾が飛ぶ、口の端には泡が溜まっている。


「あいつも! 死んで当然の奴だったんだよ! あいつのせいで……何もかもおかしくなっちまったんだからよ!」


 顔を溶かされていた死体の名は高野芳樹たかのよしき、彼は純一の勤めていた会社の同僚だった。

 三ヶ月前に異動してきた芳樹は、まだ三十歳と職場の中では若手だったが仕事もでき、容姿も良かったためすぐさま職場に溶け込んだ。純一はあまりその存在を気にしてはいなかったが、すぐに彼は芳樹に意識を裂かなければならなくなった。


 芳樹は確かに仕事ができた、だが人間である以上どうしても失敗する事もある。上司からの評価や、周りの目を気にした芳樹は自分の失敗を純一に押し付け始めた。

 純一が懸命に働いていた事は間違いなかった、だが彼は周りと積極的にコミュニケーションを取るタイプでは無い。

 そのため芳樹が純一に失敗を押し付けても、誰もそれを疑わなかった。

 言葉巧みに自分の失敗を、あたかも純一の失敗のように周りに言いふらした。

 

 純一に向けられる視線は日に日に冷たくなる、耐えきれず彼は上司に訴えた。

 あの失敗は自分のではなく、芳樹の失敗だと必死に訴えた。だが上司はあまり喋らない純一よりも、ほどよく自分を上げてくれる芳樹の方を気に入っていた。


「ちゃんと証拠あって言ってるのか? めったな事を言うもんじゃない」


 そう言ってまともに取り合ってはくれなかった、そしてその一件は周囲に広まりついに純一は会社に居場所が無くなった。

 挨拶をしても誰も返してくれず、仕事の話すらまともしてくれなくなった。

 精神的に疲弊しながらも純一は会社に行った、抱えていた仕事に対する責任感と家族の為に針の筵に座り続けた。そんな彼の体は、着実に破壊されていった。

 吐き気や慢性的な頭痛に悩まされ、目は意思に反して痙攣し夜も眠れない。食事も喉を通らなくなり、体はどんどんやせ細っていった。そしてついに会社で意識を失い、病院に担ぎ込まれたのだった。


 皮肉な事に純一は、意識を失った事で久しぶりにぐっすりと眠る事ができた。目を覚ました彼は病室で一人、将来への漠然とした恐怖に襲われていた。

 これから自分はどうなるのだろうか、そんな風に考えていた時だった。

 病室の扉が開き、男が入って来た。


「どーも」


 見舞いに来たのは芳樹だった、安っぽいフルーツの詰め合わせを持ってやってきたのだった。

 

「た……高野」


「いきなり倒れるからびっくりしちゃいましたよ、どうですか? 具合の方は」


 わざとらしい、芝居がかった言葉に純一は怒りが込み上げた。

 怒鳴り散らしてやろうと思った、いっそ殴ってやろうかとさえ思った、だが純一は芳樹を殴るどころか怒鳴りつける事すらできなかった。

 彼の口を塞ぎ、体をベットに縛り付けるのは彼の中にある凝り固まった常識だった。相手に怒鳴り散らすのはみっともない、暴力は良くないものだ。

 そんな当たり前が彼を余計に苦しめた。


「……大丈夫、すぐ仕事に戻れる。迷惑かけてすまない……」


「ああ、ならいいんです」


 そう言って立ち上がった芳樹は、純一の肩に手を置いた。


「島田さんが戻ってきてくれないと、俺が困るんで」

 

 奴隷を見るような下卑た笑みを浮かべながら呟き、芳樹は病室を出て行った。

 その言葉が自分を心配してのものではない事に、純一はすぐに気付いた。

 そして想像できてしまった、職場の嫌われ者の見舞いに行き周りからの評判を上げる芳樹、そして再び仕事に行き食い物にされる自分の姿が。


 もう純一には、仕事に行く気力は残されていなかった。




「だから……殺したのか?」


「ああそうさ! あいつのにやけた顔を溶かしてやった時は最高だったぜ!」


 洋平には、目の前にいる男とあの顔を溶かされた男の関係は分からない。

 何かあったのだという事は分かる、だがそれは男の非道を許す理由にはならなかった。


「……そうか」


 洋平の前にいるのは、妻と娘を贄にし幼い子供を含めた家族を殺した男。

 その認識はどう足掻いても変わらない、彼の刃を握る手に更に力が入る。滴る血の量は増え痛みは増す、だが力を抜く事はできなかった。

 

 洋平は純一が同じ人間に見えない、自分とは違う生き物にさえ思える。

 ニュースで時折見るおよそ人の所業とは思えない事件、その犯人に洋平はその場だけの怒りを抱いた事は何度かあった。だが今は違う、決して消えそうにないどす黒い怒りの炎が彼の中で燃え盛る。


 一歩、洋平は近づいた。

 腕を抑えながら、純一は泣き出した。


「頼む、見逃してくれ……殺さないでくれ」


 僅かに洋平の心が揺らぐ、その隙を純一は見逃さなかった。

 体を起こし、残された右手で洋平の右脇腹に触れる。


「うっ……!」


 煙が立つと同時に、脇腹に熱した鉄を押し当てたような痛みが走る。

 洋平は自分が溶ける音を聞き、臭いを嗅いだ。


「死ね!」


「ふざけんじゃ……ねえ!」


 激痛の中で、洋平は純一の右手を切り落とした。

 両手を無くした純一は痛みで転げまわる、洋平はそのまま膝をその場に折った。

 右脇腹から煙が上がる、額には汗がプツプツと浮かび激痛に全身が支配された。服の袖を噛んで、洋平は痛みを堪える。


 あまりの痛みに、神経が麻痺したのか洋平の痛みは少しづつ落ち着いていった。立ち上がり、悲鳴を上げながら転げまわっていた純一の前に立った。


「ちくしょう! いてぇ……! いてえぞクソが!」


 洋平は騒ぎ立てる純一に向かって刃を振り上げた、今まさに刃を振り下ろそうかとした時、マガズミの手が洋平の肩に触れた。


「もう一歩前に出て、じゃないと一振りで殺せない」


 その言葉に従い、洋平は一歩前に出た。

 純一は怯えと怒り、恨みを込めた目で洋平を見る。


「くそがああああ!」


 刃は美しい軌道を描いて、純一の体を切り裂いた。






「ねえ、元気出しなって」


 歩く洋平は何も言わない、マガズミは先ほどからずっと声を掛け続けているが彼から返事をもらう事はできなかった。

 

「アンタは勝って生き残った、何をそんなに落ちこむ必要があんのよ?」


 勝利と生を手に入れた、確かにそれは本来喜ぶべき事だ。だが洋平の心は晴れない、怒りを抱いた相手を殺したというのに彼の中にあるのは前回と同じ右手に残る嫌な感覚だけだ。


 自分がした事が本当に正しかったのか、何度も何度も自分に問いかける。

 自分が殺したのは奇跡に狂った化け物だったのか、それともそうならざるをえなかった人間か。


「アンタ、あいつを殺した事を気にしてるの?」


「……他の選択者はみんなああなのか?」


「人によるとしか、でも大抵はああなるんじゃない? 相手を一方的に蹂躙できる力があるなら、それを使いたいって思うのが普通だと思う」


 結局はっきりとした答えを出せないまま、洋平は聡の葬儀を行った斎場まで戻ってきてしまった。

 時刻はすでに二時を過ぎている、斎場の方を見るとすでに葬儀は終わっているようだった。

  

 重い気分のまま家に帰り、京子に心配をかけるのを申し訳なく思い、公園でゆっくり考えをまとめようとした。

 公園の入り口に差し掛かった時、洋平は足を止めた。

 ベンチには美羽が座っていた、たった一人で何をするわけでも無くベンチに座っていた。


 あの時の会話が蘇る、もうあんな話はしたくないと思い洋平は場所を変えようとした。


「アンタ、行っちゃうの? チャンスじゃん」


 マガズミは洋平を呼び止めた。


「チャンス? どういう意味だよ」


「泣いてるから、あの子」


 良くない事だと理解しながらも、洋平は物陰から美羽の様子を伺う。

 確かに美羽は泣いていた、顔に手を当て体を震わせながら泣いていた。


 

 彼女は家族の前で泣かないと決めていた、両親の前で一緒になって泣くのは簡単だったが、それをしてしまえば二人を更に悲しませてしまう。

 そんな強がりを抱えて、兄が死んでからの数日間を過ごしていた。


 陰口を言われても、居場所を失っても涙は見せなかった。

 絶対に泣かない、そう心に決めていた。


『俺は美羽の笑った顔が一番好きだな!』


 大好きだった兄がそう言っていた、だから彼女は泣かなかった。

 だがそれももう限界だ、葬儀が終わり一人になった美羽はどうしても我慢できず公園で一人、声を殺して泣いていた。


「ほらね、泣いてるでしょ? 大チャンス、大チャンス」


「帰るぞ」


 洋平は美羽に声を掛ける事なく、帰路についた。

 

「ねえ、なんで声かけなかったの?」


「……何て声かけりゃいいんだよ」


 美羽に掛ける言葉を洋平は持っていない、そもそも声を掛けるべきではないとそう判断した。

 先ほどまで抱いていた、美羽に対する悪感情はもうない。

 彼女は静かに兄を想って泣いていた。


『お兄ちゃん……』


 そう言って美羽は泣いていた。

 ほんの少ししか彼女の心を垣間見る事はできなかった、それで美羽という一人の人間を理解した気になるのはあまりに傲慢だという事を洋平は理解している。

 だが、今はそれで十分だった。

 洋平は、自分の中の問いに対する答えを見つける事ができたような気がした。

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