第2話  選択を迫る者

 聡は洋平と別れ、家を目指し一人歩いていた。

 雨は勢いを衰えさせること無く降り続けている、聡は不意に立ち止まると後ろを振り返った。


 そこに洋平の姿は無い、彼は洋平が追い付いてきていない事を知っていたがどうしても振り返ってみたくなったのだ。

 洋平の走って行った道を少し眺め、聡は再び歩き出した。


「あいつ……見つけられたかな」


 そう呟いた聡が、後ろを振り向く事はもう無かった。




 洋平は腰を抜かし尻もちを着いた、一度は取り去ったはずの恐怖に体を支配されてしまったからだ。


「そうビビんないでよ、別にアンタを取って食おうってわけじゃないんだからさ」


 白い少女の金色の瞳が、洋平の黒い瞳と重なる。少女の声は美しく、それでいてどこか軽やかさを洋平に感じさせた。


「お……お前は一体何なんだ? 何でこんな所に、いや違う俺が言いたいのはそんなんじゃなくて……」


「情けないなあ、落ち着いてよ。それから質問するなら一個ずつ」


 冷や汗を流しながら言葉を上手くまとめられない洋平を、少女は呆れたように見ている。

 とりあえず言葉が通じるという事が分かり、洋平は少しずつ落ち着きを取り戻し何とか立ち上がった。


「お前は……いったい何だ? 誰なんだ?」


「神あるいは全、善悪の超越者、倫理の果ての暗闇から這い出した者、肩書きはいくらでもある。アンタが好きなように呼べばいい」


「……名前は無いのか?」


「ああ、名前ね。アタシはマガズミ、よろしく」


 マガズミと名乗る少女はニコニコと笑いながら洋平を見ている、洋平の頭は混乱したままだが目の前の少女の名前が分かった分、少しは進展があったと思い込む事にした。


「じゃあマガズミ、お前の目的は?」


「弱者救済」


「どういう意味だ?」


「アンタにもあるでしょ? あれがしたいとか、ああなりたいとか、あれが欲しいとかさ。そういう願いを叶える為にアタシはここにいる」


 洋平も人並みに漫画などの創作物に興味はあり、自分が今置かれている状況にも見覚えがあった。

 だがそう都合の良い話ばかりではない事も知っている、自分の願いが叶う代わりに何かしらのリスクを負う事はそういった展開ではよくある事だったからだ。


「なあ、それって何かリスクがあるんじゃないのか? 例えば……俺の命とかさ」


 マガズミは一瞬ぽかんとした顔して、それから大声で笑いだした。

 笑いすぎて呼吸が苦しくなったのか、最後の方はひゅうひゅうと喉を鳴らし目には涙が溜まっていた。


 あまりにも馬鹿にしたように笑うマガズミに、洋平は不快感を露わにした。

 

「何がそんなに可笑しいんだよ」


「そりゃ可笑しいわよ、リスクも負わないで願いが叶うはずないでしょ。まさかそんな当たり前の事を聞いてくるとは思わなかったから」


 そう言って思い出したように少し笑い、マガズミは体を縮め始めた。

 二メートルはあった身長は洋平の目線の少し下、百六十センチほどまで小さくなった、着ていたドレスもそれに合わせて小さくなったらしく、縮んだ分のスカートが床にだらしなく広がる事も無かった。


「それともう一つ、アンタは願いを叶える代償が自分の命だと思ってんの?」


「あ、ああ」


 冷たい笑みを浮かべたマガズミの手が洋平の首を掴む、先ほどまでドレスの長い袖に隠れていた腕は少女らしい細く白い腕だった。だが首を絞めつける力はとても少女のものとは思えない。


「アンタの命一つでどんな願いが叶うっての? 自分の願いを叶えるのに命を懸けるのは当然、リスクなんかじゃないのよ」


 投げ捨てるようにマガズミは洋平の首から手を離した、洋平は喉を抑えながら激しく咳き込む。洋平の首を絞めた力も、言葉に込められた圧も人のものとは格が違う。

 洋平は、改めて目の前にいるマガズミが人間では無いという事を思い知った。


「まあいいわ。こんな所じゃ何だし、また後で話しましょ」


 そう言ってマガズミは消えた。

 洋平は痛む喉をさする、電気が消えたのは偶然で先ほどまでの少女は自分が恐怖から見た幻、洋平はそう思いたかった。

 だが確かに喉に残る痛み、耳に残った声、その全てがマガズミという少女が幻などでは無かった事を洋平に教える。


「何だったんだよ……」


 そう呟き、洋平は力無く教室を後にした。




「何か言う事は?」


 家に帰ると時刻はすでに六時を過ぎていた、本来ならばとっくに家に着き夕食を食べている時間である。

 キッチンにいた京子の顔は笑っているが声に少し棘がある、母が怒っている事を洋平は瞬時に察した。


「本当はもっと早く帰ってくるつもりだったんだけど……」


「洋平」


「……ごめん」


 京子は怒っていても声を荒げず、静かに怒る。洋平の帰りが遅かった事、加えて遅くなると連絡を入れなかった事に対して京子は怒っていた。

 洋平は言い訳をしようとしたが京子の圧に押され、素直に謝る。


「まあいいわ、先にお風呂入っちゃいなさい」


 高校生にもなれば、友人と寄り道をする事が珍しくない事を京子は理解している。

 だが遅くなるなら遅くなると連絡を入れて欲しい、もし何か食べて遅くなるなら、それに合わせて夕飯の量を調整するからと京子はいつも洋平に言っていた。

 

 だがそれは建前で、根底には母ゆえの息子を案じる気持ちがあった。

 


 洋平は自分の部屋へ向かい、制服を脱ぎ捨てると部屋着を持って風呂に向かう。

 風呂はすでに沸いており、洋平は体を流し湯船に体を沈めた。


 洋平は言葉にこそ出さなかったが、家にいた京子を見て心の底から安堵した。

 マガズミを見た後の京子の姿はとても人間的で、自分より少し背が低く髪は真っ白ではなく濃い茶髪、それを後ろで一つにまとめている姿は洋平が一瞬見失いかけた人間の姿を教えてくれた。


「何だったんだろな……あいつ」


 湯船に浸かり、洋平はぼんやりと天井を見た。

 願いを叶えるとマガズミは言っていた、その言葉が仮に真実だとすれば一体自分は何を願うのだろうか、洋平は疲れ切った頭でそんな事を考え出していた。


「ブオナセーラ、良いお風呂じゃない」


 視界の端からマガズミが現れた。


「うおわああああ!」


 水面激しく波立たせ、洋平は飛び上がる。

 マガズミは湯船の脇に先ほどと変わらない様子で立っており、驚いた洋平の姿を見てケラケラと笑っている。


「何かあったの!?」


 曇りガラスの扉越しに京子が洋平に声をかけた、息子が風呂場で普段出さないような大声を出せば大抵の母親は様子を見に来る。

 京子も例に漏れず、洋平を心配してやってきた。


「だ、大丈夫! 何でもない!」


 洋平はマガズミの姿を見られるのはまずいと判断し、京子に嘘をついた。

 京子は首を傾げながら、深く詮索せずキッチンへ戻って行った。京子が脱衣所を出て行った音を聞き、いなくなった事を確認してから洋平はマガズミの方を見た。


「なんでうちにいるんだよ」


「そりゃいるわよ、まだ願い事も聞いて無いし」


「……とにかく風呂から出て行ってくれ、話は後で聞く」


「え~? 別にアタシは構わないけど?」


 ニヤニヤと洋平の体を見ながらマガズミはいたずらっぽく笑う、恥ずかしさと怒りから洋平は顔を赤くした。


「出てけ!」


 マガズミはいなくなったが、洋平にとって大変だったのはここからだった。

 風呂から上がると京子は訝しげな顔で洋平を見て来た、特にこれといって詮索してくるわけでも無かったが、洋平は言い訳のタイミングが掴めず、終始京子とギクシャクしたまま夕食を終えた。


 歯を磨き、後は寝るだけの状態にして洋平は部屋に戻るとベットに腰を下ろした。


「……いるんだろ」


 洋平の言葉を待っていたかのように、マガズミは姿を現した。

 

「願い事はお決まり?」


「その前にもっと詳しく聞かせてくれ、お前の事も目的も」


「いいよ、何が聞きたい?」


「願いを叶えるって言ってたけどよ……何でもなのか?」


「もちろん、曲がりなりにもアタシは……神は嘘をつかない。呆れるほどの財産も、金庫に入れたくなるような美女も、世界ですらお望みとあらば与えるよ」


「条件は? 願いを叶える為に俺は何をすればいい?」


 マガズミは暴力的な笑顔を浮かべた、それは可愛らしい少女の姿で恐ろしいほど底意地の悪そうな笑顔だった。


「願いを叶える条件は一つ、キリング・タイムで生き残る事」


「キリング……タイム?」


「願いと願い、欲と欲をぶつけ合い人間同士で殺し合う、それがキリング・タイム。最後に残ったただ一人が自分の願いを叶えられるってわけ、簡単でしょ?」


「殺し合うって……どうやって?」


「その力は私があげる、ちゃんとそれらしいのをね」


 洋平はマガズミに返す言葉が見つからず、何も言わず押し黙った。

 早い話が願いを叶えるためのバトルロワイヤル、洋平は自分がそれの参加を促されているのだと気付いたからだ。


「もちろんタダでじゃない、アンタは願いともう一つ贄を捧げなきゃいけない」


「贄って……まさか生贄か?」


「まあ人でも物でもいいけど、とにかくアンタの大事なモノ。贄と願いをアタシに捧げる事で、アンタは初めてキリング・タイムに参加できる」


 洋平は考えた、自分が捧げられるモノとは何か。そもそも叶えたい願いとは何なのか、何と答えるのが正解なのか。洋平の頭の中にいくつもの考えが、浮かんでは消えを繰り返した。

 十分ほど経ったころ、洋平は暇そうにしていたマガズミに声をかけた。


「決まったよ」


「おっ、なになに? アンタの願いは? アタシに一体何を捧げるの?」


「俺は何も望まない、何も捧げない。そのキリング・タイムとやらには参加しない」


「は? ちょちょちょ、アンタ何言ってんの? 何でも願いが叶うチャンスなんだよ? それをわざわざ棒に振るっての?」


 洋平には確かに叶えたい願いがいくつかあった、だが誰かを犠牲にして叶えたい願いかと聞かれた時、迷う事なく首を縦に振る自信が洋平には無かった。


「俺は殺し合いなんてごめんだ、お前の言ってる事が本当か分からないしな」


 その言葉と共にマガズミの顔から笑顔が消えた、軽蔑するような理解できないと言いたげな目で洋平を見る。


「つまんな」


「は?」


「つまんない奴ねアンタ、叶えたい願いの一つも無いの?」


「無いわけじゃない、ただ俺の願いは誰かを傷つけたり殺したりして叶えるほどの願いじゃないって言いたいだけだ」


 それを聞いてマガズミは笑った、教室の時と同じような大きさで笑った。だが確かにその笑いには嘲笑と侮蔑が含まれていた。


「あんた願い事って誰かを傷つけずに叶えられるモノと思ってんの? 誰も傷つけない願いなんて無いのよ。多かれ少なかれ誰かを踏み台にしなきゃ、願いなんて叶わないのよ」


「そんな事……!」


「無い……とでも? まあアンタみたいに今置かれてる状況で満足して、誰かを足蹴にしてでも叶えたい願いも度胸も無い奴は、精々どっかの少し上手く生きてる奴に使われて死んでいくのがオチってもんよ」


「……お前いい加減にしろよ、いきなり現れて殺し合えだなんて滅茶苦茶言いやがって、断ったらそれかよ」


 洋平は怒りと共に立ち上がった、自分が何か間違っているとは思えない。願いを叶える、それは自身の努力によって達成されるものだ。

 その努力の中に誰かを傷つけたり、ましてや殺す事など含まれているはずが無い、洋平はそう考えていた。


「まあいいわ、どうせそのままじゃいられなくなる時が来る。アタシに出会った時点で運命は動き出してる、その時が来たらもう一度話をしましょ」


 洋平は何も言わずにマガズミを睨む、もう一言たりとも言葉を交わしたくなかった。ただ早く消えてくれと、そう強く念じていた。


「またね」


 マガズミは消えた、残された洋平は自分の中にある怒りを少しでも忘れようと机に向かい、数学のプリントを始めた。

 怒りが力に変わっているのか、プリントはあっさりと終わってしまう。


 

 明日の準備を終え、ベットに潜り込んだ洋平を睡魔が襲う。

 やがて明かりの消えた部屋に洋平の寝息が響きだした。

 深く深く眠る洋平を、マガズミは部屋の隅でただじっと見ていた。

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