第2話 生まれて初めての恋

 あのプラネタリウムの日から、依緒との関係が何か変わった、と今日子は感じていた。


 バイト先のコンビニで夜、レジからたまに見かけていた、ちょっと疲れた様子で新作スイーツを買っていた可愛らしいお客さん。色白でおしゃれで、可愛いなあ、何をしている人なのかと思っていたら、ある朝取材先に行く電車で隣になり、落とした“お守り”の「星の雫」を拾ってくれたことから仲良くなった。

 彼女が返してくれた文庫本にはメモが挟まれていて、名前と、自分も「星の雫」が好きなこと、そしてもしよかったらとLINEのIDが書かれているのを見た時は、つい、キャー! と言ってしまった。

 こんな偶然ある? 「星の雫」は有名作品とはいえ十年前の作品であり、何かの時に好きな作品として挙げても、あー、流行ったよね……というふわっとした反応で具体的な内容の話にはならない。

 でも、依緒の「星の雫」好きは本物で、主人公達と同じ大学を目指し入学してしまったくらいなのだ。好きなシーンもセリフもお互いに次々と挙げることができたし、それをまだ行ったことのない小樽の実景と重ねて教えてくれるのも今日子の心を捉えた。

 ちゃんと就職しなさい、ちゃんと結婚しなさいとしか言わない実家に寄りつかず、最近は恋人も作らず気楽に一人で過ごしてきた今日子にとって、見返りを求めず朝に夕に自分を気遣うメッセージをくれる依緒の存在は新鮮だった。ちゃんと時間に起きているか、眠れているか、忙しいんじゃないか、疲れていないか。そして、私うるさいよね、私の相手なんてしなくていいよといつも付け加えてくる。

 確かに今日子はマメに連絡を取るタイプじゃないし、恋人にそうされてもろくに返事もしないタイプだった。でも、依緒とは会話を重ねるのがただただ楽しく、うるさいなんて思ったことはない。それどころか、バイトや取材中にスマホを見られない時はそわそわし、休憩になると一番にスマホを確認し、依緒から連絡が入っていると自然に笑顔になるくらい嬉しく、やりとりが途切れると何度も画面を確認しては落ち着かないようになった。

 埼玉生まれで東京は中学時代から友達どうしで出かける先であり、そのまま在京大学に進学し、親族も昔なじみの友人達も近いところにいる自分と違い、依緒は一人、遠い札幌から誰も知り合いのいない東京へ来て、アパレル業界に5年勤め、メーカーの日本撤退という局面でも投げ出すでもなく逃げるでもなく、毎日遅くまで業務を黙々とやり遂げている。もうほとんど社員も残っていないよと苦笑していた。

 いかにも雪国育ちというような、はかなく優しげな印象の依緒にどこにそんな底力があるのだろうと思う。依緒の話を聞いているだけで感心するし、興味も引かれるし、もっと自分も頑張らないといけないと力が湧いてくる。


「いつか、『星の雫』みたいな恋愛小説を書くことが目標」

と、今日子は依緒に宣言した。

 今まで誰にも明かしたことはなかったけれど、依緒には知って欲しかった。

「すごい! 今日子の文章はほんとうまいもん。きっと書けるよ。私、楽しみにしてる」

 依緒は今日子が書いた過去の記事もネットで探して読んでくれていると言う。

 嬉しかった。

 けれど、今日子の本当の悩みについてはまだ依緒には言えていない。


 今日子は、一度もちゃんとした恋愛をしたことがなかった。

 小説に書ける程の恋愛に憧れているのに、人を好きになるという気持ちを味わったことがない。

 女は好かれるのが幸せだと母も姉も言うから、好きだと言ってくれた男とはとりあえず一緒に出かけて、フィーリングが合ったり、体の相性が悪くなければそのまま付き合ってみた。

 大学の後輩の女の子に涙ながらに告白され、胸を打たれて付き合ったこともある。

 でも、結局恋愛というものは未だによくわからないままだ。

 恋人達がにこにこ幸せそうなのは最初だけ。今日子は普段の生活から睡眠時間なり余暇を削り、その分を恋愛に回すイメージなのだが、恋人達は次第に、自分だけ見て欲しい、仕事より趣味よりほかの友人より自分を優先して欲しいと言い出す。嫉妬し、束縛するようになる。それは今日子には理解できない。やがて散々わめかれ、泣かれ、脅され、それでも薄い反応しか出せない今日子に失望し、彼らは去って行くのだ。

 そんな自分に、「星の雫」みたいなキラキラした恋愛小説なんて書けるのか。

 ──書けないだろう、と今日子は思う。

 だからいつまでも、「星の雫」はお守りとしてカバンに入ったままなのだ。


 でも、今、いつも気づけば依緒のことを考えている。

 依緒のことを思うだけで力が湧いてきたのに、楽しかったのに、

 依緒がお見合いするかもしれないと思うと、イライラして落ち着かない。

 自分から質問したくせに、過去の恋愛話を聞くだけでも面白くなくなった。依緒がほかの見知らぬ男の横に立ち、デートを楽しみ、キスやセックスをしている姿が思い浮かび、胸がかきむしられるような不快感に襲われる。

 このまま依緒が東京での転職を諦め、札幌に戻れば母が薦める男が待っているだなんて。

 それをはっきり否定しない依緒の態度にもムカついていた。

 当てつけのように先輩のことを話した時、依緒も微妙な顔で聞いていたけれど、どう思ったのだろう?

 不眠は近頃ますますひどくなり、眠れないままパソコン画面に向かっても、効率も質も下がってきていると自覚している。

 食欲も減り、少し食べてもコンビニバイトで体力を使うので、毎日体重が少しずつ減った。食べようとしても胸がいっぱいで食べられない。

 

 先輩が今日子に言い寄ってくるのは本当だった。

 飲みに行くのを断っても、数時間後に酔って電話やLINEをしてきて、この後会えないかとか家に行っていいかとか言う。学生の頃からお前を可愛いと思ってきたとか、妻とはわかり合えないけれどお前は同志だとか言う。集団での飲み会の後にキスを迫られたり、ストレートにホテルに誘われたりもした。でも曖昧に笑って断った。

 別に今日子は倫理観から断ったわけではない。先輩は、就職活動をする気もなかった今日子に仕事として書く場を与えてくれたし、人脈も広げてくれた。面倒見がいい人だと思う。そこには自分に対する下心があるのもわかっていたけれど、気づかぬふりをしてきた。

 元々ライターとして一本立ちしたかったため、社員ではなく契約ライターとして所属してきたが、最近は極力オフィスには立ち寄らないようにしている。

 それでも彼が執拗に誘うのが正直面倒だった。今日子はまっとうな恋愛にずっと憧れているのに、先輩は家族がいるし、他の社員の目もある中、どう考えても楽しい恋愛にはなりそうもない。何より、結局は彼に対して恋愛感情を抱けない。もう自分の反応に失望され、責められて関係が断ち切れる恋愛もどきはこりごりだった。

 でも先輩があてがってくれる仕事が無くなれば、生活はすぐにきつくなるのもわかっているから、今日子は決定的なことを言えなかった。

 


 パソコンを起動して、何年も書きかけのままの恋愛小説ファイルを開いてみる。

ひとりぼっちの女が過去に傷を抱える男を好きになる、王道の男女の恋愛ストーリー。

 でも、今私が気になっているのは、──依緒だ。

 プラネタリウムで依緒にもたれかかって寝てしまったことは今日子には驚きだった。

 自分がそれほど依緒に心を許しているなんて思わなかった。

 話しても話しても話し足りない。

 スマホを通しての会話だけじゃ足りない。

 ずっと横にいたいし、依緒の顔を見ていたいし、──私だけを見ていて欲しい。


 ああ、これか、と今日子は思った。過去の恋人達が今日子にぶつけた思いはこれか。

 ようやくわかった。

 私は依緒を好きなんだ。

 依緒に生まれて初めての恋をしたんだ。

 ずっと憧れてきた恋する気持ち。

 でも今、今日子の胸に広がるのは、独占欲と嫉妬と寂しさがないまぜになった苦しい塊だった。全然キラキラなんかしてない。そんな苦しさも初めてのことだった。



 月末に札幌に戻る、と依緒から告げられたのは12月半ば、早めのクリスマスなんて言って依緒の家で鍋を囲んでいる時だった。

「先週、母が雪で転んで足を骨折したの。まだ入院しているんだけれど、退院したら父だけで母の面倒は見られないから、とりあえず帰ってきて欲しいと言われたの」

 先週? そんな大事があったのに教えてもらっていない──と思ってから、今日子はなぜそんなことで胸が痛いのかと思った。恋をすると感情がおかしくなる。

 いやいや、それよりもっと重大な問題があるだろう。

「それは大変だね。でもまた東京に戻ってくるんでしょう?」

言いながらあまりに自分勝手かと心配になったが、聞かずにいられなかった。

 依緒は今日子の視線を外すように目を伏せたまま頷いた。

「そのつもりではあるけれど……、まだ再就職先も決まってないし、母もいつになったら生活が大丈夫になるかわからないから、いつ戻るかは決めないで行こうかと思って。何週間後かもしれないし、何ヶ月後かもしれないし、……」

「戻ってこないかもしれないし?」

依緒が飲み込んだ言葉を、今日子はついまっすぐにぶつけてしまう。

 依緒は今日子を見て困ったように微笑んだ。

「どうかな。でも、この家を引き上げるわけじゃないし」

「依緒がいなくなったら寂しい」

 涙が出そうになり、今日子は手にしていたお椀をテーブルに置いた。

「うん。私も今日子がいないと寂しくなるな。毎日LINEして、会える時に会って、今じゃどんな幼なじみより私のこと知ってる一番の友達だもん」

 

「……友達じゃない」

 今言うべきではないと思っても、恋心が涙と言葉になって今日子から溢れ出していた。

「私は依緒が好きなんだよ」

 ぽろぽろ涙を流す今日子の背中を依緒が撫でた。優しい手。

「ありがとう、私も今日子が好きだよ」

「だから、友達としての好きじゃないの。本気なの。離れたくない」

 そのまま今日子は自分より小さな依緒に抱きつき、肩に顔を埋めて泣きながら続けた。

「こんなこと言うとむしろ嫌われるかもだけれど、札幌に帰って欲しくない」

「嫌わないよ。今日の今日子、子供みたいで可愛いね」

 ああ、このイントネーション。

 依緒は普段は標準語を話しているけれど、二人で話している時にふと訛りが出る時があり、素の自分で接してくれている証にも思えて、たまらなく愛おしい気持ちが増した。

「年上なのにかっこ悪いね」

「一つだけでしょ」

 依緒に抱きしめられたまま背中を撫でられ続け、今日子は少し落ち着きを取り戻した。

 その様子がわかったのか依緒が話し始める。

「正直、就活苦戦しているんだ。英語はやっぱりTOEICスコアも大して良くないし、幅広く受けてはいるんだけれど、30近いからって結婚はどうの子供はどうのって聞かれて落ちる。まだどうなるかなんて私にもわからないのにね。結局私には大したスキルもないからだと思うけれど」

「5年も頑張ってきたのに。向こうに見る目がないんだよ」

「私は特別な才能がある今日子とは違う。誰もができる仕事ができるだけなんだと思う」


 違う、こんなことを話したいんじゃない。

 自分が生まれて初めて恋をしたのが依緒だということ、そしてどんなに依緒が好きかを伝えたいのに。

 

 でも、いくら美しい言葉で依緒を引き留めたとしても、あと半月で仕事が無くなる依緒を、バイトで日々をつなぐ自分がどう守れるのだろう?

 東京での生活は夢ではなく現実だった。

 言わないだけで、依緒は再就職でかなりしんどい思いをしてきたのだろう。

 自分の価値を低く捉えがちな依緒にとって、否定されるのは何よりも辛かったろうに。

 初めての恋心を持て余していっぱいいっぱいになり、依緒を気遣ってこなかった自分。

 彼女を引き留める資格なんてある?


 今日子は涙を拭い、依緒の肩から顔を上げた。

「泣いたりしてごめん。もう帰るよ」

「ほんとに? 大丈夫? 泊まっていってもいいんだよ」

と、依緒が心配そうに今日子の顔を覗き込む。

「そういう顔が可愛くてダメなんだよ。襲っちゃいたくなる」

 半分本気を混ぜて言ってみると、依緒はちょっと困ったように微笑んだ。

「私のこと、そんなに好きにならないで。好きになっても、すぐに私に飽きちゃうと思うよ」

「そんなことあるはずないよ! 私達仲良くなってまだ浅いけど、こんなに毎日連絡取り合って、それでも足りないって思ってるのに……」

「でも、私と付き合った人も、親友って言ってた友達も、みんな私が大好きになる頃には私のこと飽きて、ただ私のことを都合良く使う人になってる。今日子とはそんな関係になりたくないから、今のいい友達のままでいて欲しい」

 

 だって、私はもうこんなに依緒が好きなのに。

 なんて残酷なことを言うのだろう。

「私、今日子とずっと友達でいたい。好きな本も同じで、こんなに話が合う人と会ったの、初めてだもん」

 依緒は今日子の涙をティッシュで拭きながら笑顔で言った。

 ──わかった。つまり私はフラれたんだ。

 今日子は無理に笑って頷き、依緒の家を出た。

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