今夜、星の雫の降る場所で

おおきたつぐみ

第1話 あなたを見つけた日

 あの日、私は「東京」を失い、「恋」を手に入れた。

 東京であなたを見つけた11月1日。

 間違いなくあの日は、私の運命の日だった。



 毎朝乗っているラッシュの通勤電車。ぎゅうぎゅうに押されながら、眠いなあ、仕事行きたくないなあと思うのも毎日のこと。

 それでも中谷(なかや)依緒(いお)は会社はさぼったことはないし、業務は真面目にこなしている。

 札幌の母は、「せっかく商大まで出たのに洋服屋で勤めてるなんてもったいない」というけれど、依緒はいつも心で言い返す。 

 ──お母さん、あなたが思うほど私は優れていないし、何も取り柄なんてないんだよ。

 

 新卒での就職は本当に大変だった。依緒はとにかく口うるさい親元から離れて東京に出たかったが、大学の先輩が働いている銀行も、商社も、IT系も、ことごとく依緒には内定を出さなかった。

 大学の同期達が札幌や東京でどんどん将来を掴んでいく中、ようやく依緒に内定をくれたのは日本に進出したばかりの海外アパレルメーカーで、ゼミで学んでいた英語を買われ、本社や海外の各拠点との物流調整、国内の店舗管理業務を担当している。まだまだ日本では出遅れたメーカーなので人員は最小限。依緒はいつもあたふたしている。

 でも留学もしなかった依緒の英語力は特段秀でているとは言えず、海外拠点との連絡では時折ミスも発生する。ちょっと留学経験があったり、英語が得意な人ならアパレル未経験だとしてもすぐに依緒の業務をこなせるだろう。

 仕事を続けるほど、忙しさは増していくのに自信は無くなっていた。

 でも、この仕事を手放してしまったら次にチャンスがあるかどうかはわからないから、なんとか人間力でカバーしようと上司や同僚達に気を遣い、5年勤めてきた。


 電車が駅の手前で急ブレーキをかけ、そのはずみで隣に立っていた背の高い女性が紙袋を落とした。降りる駅なのか、他の乗客達に舌打ちされながら慌てた様子で落ちた荷物を拾い、人をかき分けて出口に向かう。ふと、何か依緒のパンプスの甲に当たると思って見てみると、カバーをかけられた文庫本らしきものが落ちている。

 先ほどの女性のものかと思い、拾い上げて振り向くと、その女性は降りたところで紙袋の中身を確かめ、「あっ」という顔をして車内を覗き込んだ。

「あの」

と依緒が声を上げてほかの乗客越しに文庫本を振ると、長めの茶色い髪をざっくりと後ろでまとめ、マウンテンパーカーを羽織った彼女が、依緒を見てぱあっと快活な笑顔になった。

 まるで長年の知り合いに見せるかのようなその笑顔に、誰だったっけと依緒は考えを巡らせたが、やはり見覚えはない。

 また乗客がなだれ込んできた。彼女は人波に飲み込まれる寸前、にこにこ笑いながら依緒に向かって拝むような仕草をして見せた。

 

 何をお願いするというのだろう。依緒はきょとんとした。

 今日初めて会ったというのに。

 次に会えるかもわからないのに。

 

それが依緒と今日子の出会いだった。


 会社最寄りの駅に降りるまで、文庫本を遺失物として届けたほうがいいかなと迷っていたが、ホームで会社の先輩が蒼白な顔で依緒の肩を叩いたことで、全て吹き飛んだ。

「中谷さん大変だよ。うちのメーカー、日本撤退だって」


 二人で急いだオフィスは騒然としていた。ほとんど不在にしているオランダ人の日本支部長が来ていて、その周りを社員が取り囲んでいる。

 支部長が読み上げた本社からの通達によると、日本国内の全ての店舗が11月末で閉鎖し、社員や店舗スタッフは残務処理が終了次第、全員解雇ということだった。

 すぐさま抗議や悲鳴でオフィスが埋まる。

 呆然としながら、次の仕事を探さなければ、と依緒は思った。

 給料は年俸制であまり余裕もなく、貯金はほとんどない。退職金は一律10万円ずつと聞いて耳を疑った。なんと弱い基盤の上で働いてきたのだろう。

 日本における売り上げはずっと目標を下回っていたので、撤退の噂は常にあった。

 本社はいつでも日本支部を切り捨てられるように用意していたのだろうか。

 同僚達は早速、業務はそっちのけで失業手当について調べたり、方々に連絡して再就職の可能性を探ったりしだした。

 依緒は一人、各店舗スタッフからの問い合わせに対応して一日が終わった。


 帰り道、駅からとぼとぼと家に向かって歩いていると、スマホが震えて母からの何度目かの着信を告げた。出る気になれなかったが、どうせこの後も着信が続くだけだ。

「依緒、やっと出た。今日ね、お母さん鈴ちゃんと会ったんだけど」

 興奮した声で旧友と会った話をし始める母の声に心底うんざりして、依緒はつい言ってしまった。

「お母さん、それどころじゃないの。私、失業しちゃうの」

 そのすぐ後で、しまった、と思う。母にだけは黙っておくべきだった。

 母は速やかに尋問モードに切り替え、矢継ぎ早に質問を浴びせた。仕方なく答えていくと、電話の向こうで母はため息をついた。

「やっぱり海外の会社なんて日本の社員のことなんてどうでもいいんだよ。

 依緒、いい機会だから札幌に帰ってきなさい。

 お母さんね、鈴ちゃんちの息子さんと依緒をお見合いさせようと思ってるの。お父さんも賛成しているんだよ」


 母の話は突拍子もなかった。

 高校の頃の同級生と最近また仲良くしだして、お互いの子供がまだ独身ということがわかり、二人を結婚させようと盛り上がったらしい。友達の息子は依緒より2歳年上、地銀勤めで真面目で、あまり出会いもなかったという。

「独身の時はちょっと悪い人に惹かれるけど、結婚生活は日常だから、穏やかで真面目な人がいいの。依緒は男を見る目がないし、頭が良くって物静かな鈴ちゃんの息子なら間違いない。しかも北大だって! いい父親になれそうな人を選んだほうが、結局幸せな結婚生活が送れるんだから」


 失業を告げられたその日に、一体私は何を聞かされているんだろう、と依緒は思った。

 明らかに母は依緒の失業を、娘を東京から取り戻すチャンスとばかりに喜ばしく思っている。

 嬉しそうに話を続ける母をどうにかなだめて通話を切った。

 このまま再就職できなかったら、東京を諦め札幌に戻ることになる。

 体がアスファルトに沈み込むように重かった。


依緒が「文庫本の彼女」と再会したのは数日後のことだった。

 

 会社は正式に日本撤退をプレスリリースし、それなりのニュースになったので顧客からのクレーム対応も依緒の担当に追加され、再就職活動は転職サイトに登録したのみだ。

 仕事帰りにふらふらとコンビニに入る。週に2、3回は、疲れたご褒美と称してアルコールかスイーツを買っている。給料を浪費するつもりはなくても、こんなことしているから貯金に回せないとわかっているけれど、恋人もいないし、同僚達と飲みに行く習慣もなく、まっすぐ帰るのがもの悲しい日もあるのだ。

 

 新作のスイーツを2つ選んでレジに並び、依緒はあっと声を上げた。

 レジカウンターに立っていたのは、電車で会った背の高い女性だったからだ。


 依緒の順番になった時、彼女は──胸の名札には「はしづめ」とあった──レジ業務の声と別に、密やかな声で「やっぱり会えた」と言った。

 その言葉にドキンと心臓が鳴る。 

「私のこと知ってたんですか?」

と、依緒も小声で聞き返す。

「ええ、常連さんは覚えています。あの日電車で横に立った時、偶然だなと思ったんですよ」

「すみません。私、あまり人の顔覚えていなくて」

「いえいえ。あ、本……」

と言われ、はっとして依緒がカバンを探った時、隣のレジのスタッフが「ハシヅメさん、ちょっとお願いします」と彼女を呼んだ。

「あの、また次回に」

 彼女が謝る仕草をしながらヘルプに向かったので、依緒も会釈をして店を出るとすぐに、カバンの底から文庫本を探し出した。

 失業騒ぎですっかりその存在を忘れていたが、まさか落とし主が行きつけのコンビニ店員だったなんて。

 包装紙で作られた表紙をめくると、「星の雫」というタイトルがあった。

 はっとする。

 それは依緒が高校生の時に流行した小説だった。

 小樽の街と大学を舞台にした、作者の経験に基づく切ない恋愛小説で、依緒も買って夢中になって読み、その世界に憧れた。そして主人公達と同じ大学を志す大きな理由にもなった。


 「はしづめ」さんが「星の雫」を読んでいたなんて──!

 年月を経たのかくたびれた包装紙のカバーが、彼女がこの文庫本をずっと持ち歩いてきたのを物語っていた。

 振り向いてコンビニを覗き込むと、彼女は快活な笑顔を浮かべながら次々に客をさばいていた。

 ──彼女は、電車ですぐ横に立っていた私をどう思っていたのだろう。

 「はしづめ」さんと話してみたい、と依緒は思った。



 会社のデスクの上に置かれたスマホが、また振動した。周囲の目を気にしつつもすぐに画面を確認すると、やはり今日子からのLINEで、依緒の頬は自然と緩んだ。

<今着替えたところ。これからバイト行ってくるね>

 行ってらっしゃい、頑張ってね、と素早く入力してアプリを閉じた。

 もう最近は毎日、何度も何気ないやりとりから深い話まで、ずっとLINEで今日子―─橋爪(はしづめ)今日子とやりとりをしている。

「星の雫」を返す時、依緒はどうしても今日子と話してみたくて、悩んだあげくLINEのIDを書いたメモを本に挟ませた。

 どきどきしながら待っていると、数時間後に友達申請が届き、やりとりが始まった。

 お互いの名前から始まり、「星の雫」について、今までについて、仕事や恋愛の話など、聞いても聞いてもどんどん興味が湧き、お互いに驚くほど話は尽きなかった。


 今日子は依緒より1歳年上で、埼玉県出身だった。

 幼い頃から書くことが好きで、学生時代はノンフィクションでもフィクションでも何度かコンクールで入賞したという。卒業後は大学の先輩が手がける小さな広告代理店に所属し、広告や企業パンフレットなどのライティングをしつつ、フリーライターとして雑誌やWEBサイトと契約し、毎日何かしら書いている。

 でもそれだけでは食べられないらしく、日中はコンビニでバイトをしている。取材や打ち合わせがある時にはオフィスに顔を出すが、基本的には夕方にバイトを終えた後は、自宅で朝方までパソコンに向かう。週に何度かコンビニバイトが手薄の日に夜まで働く時、依緒を見かけていたという。

 依緒と電車で出会った日は朝から取材先に向かう途中だった。

  

 本当の夢は「星の雫」のような恋愛小説を書くことで、高校時代に夢中になった文庫本をお守りのように持ち歩き、舞台となった小樽にも憧れていた。

 だから、依緒が小樽商科大学出身と知った今日子はひどく興奮していた。

 

<依緒と出会えたのは運命だと思う!>

 今日子はすぐに自然と依緒を名前で呼んだ。

<今まで北海道出身の人とは何人か会ったことあったけど、樽商出身の人はいなかったもん!>


 依緒は嬉しかった。

 今までどこかずっとしっくりしなかった「樽商出身」という肩書きを、今日子はこんなにも喜んでくれる。

 思えば依緒の自己肯定感の低さは、大学時代から始まった。

 受験勉強はそれは頑張ったけれど、模試ではいつもB判定止まりだった。ぎりぎりの合格なのは自己採点でわかったけれど、幸運を素直に喜べたのはそこまでで、毎日の授業や課題について行くのに依緒は必死だった。定期試験結果はいつも低く、なんとか単位を取るので精一杯。

 就職活動もなかなかうまくいかず、ようやく掴んだ仕事も今、失おうとしている。

 転職サイトでいくつかの企業にエントリーしたが、まだ面接までこぎつけてもいない。

 母からはひっきりなしに「札幌に帰ってきなさい」と連絡が来ていた。

 

 折れそうな心を、今日子はたくさんの言葉で依緒に自信をつけようとしてくれた。

<依緒は私の憧れの大学にいたんだよ! つまり依緒は私の憧れだね>

<まず5年正社員をしてきたのが偉い! しかも英語で! 尊敬しかない>

<海外の人とも日本全国のスタッフともコミュニケーション取れるってなかなかできることじゃないよ>

<とりあえず依緒って可愛いよね! 可愛いお客さんだから覚えていたよ>

 

 依緒から見ると、今日子こそ背が高くて化粧っ気がほとんどないのに涼やかな美人顔で、東京の有名私立大学出身だし、幼い頃からの夢を磨き続け、有名雑誌にもいくつも記事を書いてきた。依緒にとっては住む世界が違うと思えるようなすごいことなのに、「ライターもどきで本業はバイトだよ」と今日子は自嘲気味に言う。時折、将来への不安などを吐露する時もあり、依緒は言葉を尽くして励ました。こんな自分でも今日子の役に立ちたくて。


 LINEだけではなく、依緒は今日子の夜シフトに合わせてコンビニに行くようになった。ゆっくり話すことはできなかったけれど、レジが混んでいなければカフェのオーダーをして、カウンター越しに少し話をした。


「ねえ、今度プラネタリウムに行こうよ」

 今日子が依緒の注文したロイヤルミルクティーを手渡しながら言う。

「『星の雫』に出てくる、降るような星空を見たくなってさ」

「いいよ。どこに行こうか?」

 依緒が問うと、今日子が「あんまりデートっぽくないところ」と言うので依緒は笑ってしまった。

「わかる。カップルシートとかあるところだと気まずいよね」

「チュッチュしてる男女なんて見たくないし。じゃ、詳しくはまたLINEでね」

「わかった」


 コンビニを出ながら、まだあの電車で会った日から2週間程度なのに、どうしてこんなに今日子としっくりしているのかと依緒は思った。仕事時以外は寝る時間も惜しんでLINEで会話し続け、今ではお互いの家族、子供時代から恋愛遍歴もざっくりと把握している。幼なじみでもここまで知り合っている友達はいない。

 11月末の全店舗閉鎖を前に、すでに退職をした同僚達もいて、どんどん殺伐とした雰囲気になっている会社生活と、転職ができるかどうかというプレッシャーに潰されそうな依緒にとって、明るい話題を振ってくれたり、愚痴でもとことん聞いてくれる今日子の存在は救いだった。

 

 でも、──依存だけはしないようにしないと。

 

 いつも、恋人でも親友でも、誰か大切な人ができたら、依緒は自分の感情も時間も全て相手に差し出し、とことん尽くしてしまう。街を歩いていても、これは相手が好きだろうというものを見つけると買ってプレゼントしてしまう。

 最初は感激し、喜んでいた相手も、だんだんと依緒の好意を当然のように求めるようになっていく。次第に上下関係ができ、依緒が疲れ果てる頃に破綻するのだ。

 結婚を願っていた恋人は、結局依緒の心も時間も金銭も散々受け取りながら、あっさりと同じ職場の女性との結婚を選んだ。

「あいつ、俺との子供がどうしても欲しいって言うんだよね」なんて依緒が望んでも言えなかったことを告げられ、2年前に別れた後、依緒は今回もそうだった、私は人間関係をうまく結べないんだ、と苦い思いで再認識し、もう誰かに心を明け渡すことだけはしない、と誓ったのだ。

 だから依緒は恋とか結婚にもう憧れは持っていないし、同僚達とも距離を置いて付き合うようにしてきた。

 

 誰かに心を開け放して一人取り残され傷つくらいなら、多少寂しくても最初から一人で静かに穏やかに暮らしていきたい。──そう思っていたところに、ふいに飛び込んできたのが今日子だった。

 偶然、思春期の頃大好きだった「星の雫」の文庫本を通して知り合ったこともあり、驚くほど自然に今日子は依緒の心に入ってきた。

 まるで昔からの親友のように。

 でも、これ以上、……「大好き」にはならないようにしなきゃ。

 そう依緒は思っていた。



 週末。

 今日子が決めたプラネタリウムは、3つ先の駅最寄りの区立教育科学館に常設されているものだった。“昔ながらのプラネタリウム”で検索したという。観覧料が350円なのも決め手だとおどけて言っていた。

「面白いんだよ、<熟睡プラ寝たリウム>って企画で、解説とかなしでアロマ焚いて熟睡するのが目的なんだって。依緒寝るでしょ?」

「それは今日子でしょ、朝まで書いていたのに」 

「だって私不眠症だもん」

 今日子の言葉に依緒は笑った。確かに今日子はあまり眠らないほうで、バイト後に朝まで書いても、少し眠っただけでまたバイトや取材に出かけてしまう。寝ようとするほうがストレスになるらしい。

 二人で出かけるのは初めてで、会うまではいろいろ考えてしまって怖くなったけれど、実際に会うと何気ない会話でも楽しくてたまらなかった。やっぱりスマホの画面を通しての文字の会話とは違い、声と声で何かを話すたびに二人の間にシナプスがつながる感じがして、自分の体の隅々までが今日子に会えて喜んでいるのがわかる。

 出会った日以来に電車に一緒に乗り、駅で降りて科学館に入り、プラネタリウムの上映時間まで並んでいると今日子が尋ねた。

「依緒はどんな人がタイプなの?」

「うーん、タイプか……強いて言えば押しに弱いかな。でもいつも最後にはなんか疲れちゃって終わるかな」

 言葉を濁して答える。

「じゃあ、相手に好かれて始まるんだね。前の彼氏と別れてから、好きな人はできなかったの? 依緒って可愛いから絶対彼氏いると思ったよ」

「そんなそんな。──いい年だけど、なんかもう好きとか付き合うとかしんどいなあって思う。なんかもう独身でいたほうが気楽に過ごせるんじゃないかって。

 あっ、でも、最近は母が自分の友達の息子とお見合いさせようって画策してるよ」

 今日子の頬がぴくっとこわばった。

「えっ、冗談じゃなくて?」

「なんか母どうしで盛り上がっててね、身元知ってるから悪さはしないだろうとか、いい父親になるタイプのほうがいい結婚生活になるとか売り込まれてるよ」

「──へえ。依緒もそれには同意って感じ? 案外すぐに結婚しちゃったりして?」

 笑い話のつもりで話したのに、妙に強いその口調に依緒は引っかかるものを感じ、自分より10センチ高い今日子を見上げた。

「……なんか怒ってる?」

「あっ、ごめん今のなし」

 今日子は慌てて依緒に笑顔を向けたので、そのまま流したほうがいいんだろうと依緒は思う。

「じゃあ、今日子は最近どうなの? なんか恋バナないの?」

「うーん。恋バナ……って程じゃないけど、広告代理店の社長──っていっても大学の先輩だけど、その人がなんか言い寄ってきてる感じかなあ。飲みに行こうとか取材旅行に行こうとか……二人になろうってしてくる」


 なんだろう、この胸のざわめきは。

 依緒は胸をそっと押さえた。

 

無言になった依緒を見て、今日子はまたもやとりなすように言った。

「でも先輩既婚者だし、不倫とか私はあり得ないから」

「そうだよね……」

 依緒も無理に笑顔を作ったが、そのまま言葉が途切れ、先ほどまでのうきうきとした気持ちが嘘のように、今日子との空気が気まずくなった。お互いの過去の恋愛話はLINEでしてきたはずなのに、なぜだろう。現在進行形の話だからか。胸の内側からジクジクしたものがにじみ出てきて落ち着かない。

 今日子も黙ったままだった。

 開場時間になり、アナウンスに従ってプラネタリウムのドームに入ると、ふわりとベルガモットの香りがした。隣り合ってシートに座る。

 次第に照明が落とされ、静かな音楽とともに闇が降りてきて、すぐ隣にいる今日子も見えなくなる。その代わりに、息づかいや、ベルガモットとは違う今日子の匂いをいつもより色濃く感じた。

 今日子から立ちのぼる香りは、初夏に実家の庭に咲くスズランの香りに似ていた。爽やかでちょっと甘い。でも甘ったるくはない。今日子は香水をつけるタイプではないから、彼女の自然な匂いなのだろう。

 ほっとするような懐かしさを感じるような匂いでもあり、クラクラする匂いでもある。

「綺麗。ねえ、小樽の星空ってこんな感じ?」

 今日子の囁きに、はっと気づけば真っ暗闇のドームの空には星々が浮かび、今日子の横顔もうっすら見えていた。

 すっと通った鼻梁。ほとんど化粧していないようなのに透明感のある肌。薄くて口角が上がっている唇。

 依緒も星を見上げる。けれど、今日子の吐息が気になって集中できない。

「うーん、なんかもっと暗いし、小樽は風が強くて木がざわめくし、星も見ていて綺麗と言うよりは自分が無くなってしまうような感覚なの」

 今日子の気配を振り払うように依緒は言ってみたけれど、今日子はお構いなしに依緒に体を寄せた。

「そっかあ、やっぱり人工だもんね。

 ──いつか、依緒と本物の小樽の星空見たいな」

 ちょっと残念そうに今日子が呟き、そのまま依緒の肩に頭をもたれた。

 依緒の心臓が痛いくらいに鳴る。


 私もそう思うよ。

 今日子と小樽に行きたい。

 でも、そんな日はきっと来ないんだろうな。

 私は、これ以上今日子と仲良くなっちゃいけないもの。

 今日子に疲れたくないから。

 今日子に失望されたくないから。

  

「なんか信じられないけど眠たい。寝たら怒る?」

「怒らないよ」

 そう依緒が呟くと、今日子は不眠症が嘘のように寝息をたて始めた。

 自分の体に今日子の重みと温かな体温が伝わってくる。スズランに似た香りが一層濃く感じられた。

 こんなに話が合って一緒にいて楽しい人と、離れたくない。

 ずっと仲良くしていきたい。

 そのまま依緒は泣きたい気持ちでドームに映し出される星空を見上げていた。

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