氷のような

増田朋美

氷のような

氷のような

その日は梅雨空らしく雨が降って、いかにも梅雨という感じがする空模様だった。そんなときでも、杉ちゃんやブッチャーは休んでいる暇がなく、その日も水穂さんにご飯を食べさせようとやっきになっていた。正確には、杉ちゃんとブッチャーは、器の前で腕組みをして、何か考えていた。

「あーあ、又か。」

と、ブッチャーは大きなため息をついた。

「昨日も食べたのはたくあん一切れ。今日もたくあん一切れか。」

杉ちゃんも腕組みをして、そういうことをいった。

「どうしたら、食べてくれるんだろうな。今日だって、肉魚一切抜きで作ったんだ。ほら、豆腐ハンバーグに、ご飯にポテトサラダ。サラダにハムだって入れなかったんだぜ。味付けは、マヨネーズしか使わなかったのに。」

「そうですねえ、これは、俺の推理ですが、水穂さんは、食べるのがこわいんじゃないんですかね。」

「こわい?」

ブッチャーの話しに、杉ちゃんは、急いでいった。

「そうですよ。又、失敗するのではないかって。確かに、アレルギーというのはあるんですけど、今は、影浦先生もいますし、天童先生とか、涼さんや、竹村さんも来てくれているんです。それだから、水穂さんを支えてくれている人は、いっぱいいると思いますよ。其れなのに、なんでそれに答えようとしてくれないんでしょうか。こんなにいろんな人たちが、水穂さんの事を見てくれているんですから。それで、何とかしようという気持ちにならないものでしょうか。」

「ま、しょうがないんじゃないの。そういう変な分別はしないことが必要だ。観音講で庵主様も言ってた。事実はただあるだけだから、それに答えるように、生きていけばいいんだって。まあ、とにかくな、今日の食事でダメなんなら、何とか、食べてくれるように、別の料理をしよう。」

杉ちゃん、本当に気持ちの切り替えが早いなあ、そんな事よくできてしまうなと、ブッチャーは思うのだった。

「そうだなあ。俺たちが、こんな話をしているって、本人に伝えたら、少しは食べてくれるようになるかな。俺たちが、水穂さんのために、こうして一生懸命料理してやってるんだって、尻を叩いたどうですかね。」

ブッチャーが思わずそういうと、

「ああ、それは辞めた方がいいよ。水穂さんの事を否定していたら、水穂さんは余計に食べなくなるだろう。」

と、杉ちゃんがいった。

「じゃあ、どうしろっていうんですか。俺たち手も足も出ないですよ。そうなったら、俺たちはどうしたらいいんでしょうか。いろんな物を食べさせましたけど、結局食べるのは、たくあん一切れだけですよ。」

「まあ、そうやけになるな。とにかくな、水穂さんが食べないのはまぎれもない事実だし、それを何とかするのは無理だと思うよ。別に食べるのは、法律で規制されているわけではないからね。でも、大事なことでもあるんだけど。それを軽視しているというか、重要視していない人が、多すぎると言うことかなあ。」

ブッチャーが思わずテーブルを叩くと、杉ちゃんはいった。

「水穂さんを、動かせるのは僕たちはあまりにも素人すぎる。そういうひとを動かすのは、何かテクニックのような物が無いとだめだよ。そういうことは、餅は餅屋っていうもんじゃないの?」

「そうだねえ、、、。」

「まあ、知識もないし、社会的な地位もあるわけじゃないんだから、素人が、下手なことはしないようにしよう。そして、素人はできる事だけしていればいいんだ。よし、それでは、別のメニューを考えてやらなきゃな。」

杉ちゃんはあっけらかんとしているが、ブッチャーはどうしてもそういう気持ちにはなれなかった。せめて水穂さんにご飯を食べて貰いたいという気持ちが消えない。それをどうしても、伝えたいと思うのだが。水穂さんに、通じない事は、たくあんひとつしか食べていないことで、もうわかっていた。

「素人が、何かすると、感情的になって、かなりの言葉を吐くだろう。そうなったら、おしまいになっちまうこともあるよ。そういう時は、餅は餅屋で、そういう技術を持っている人を探そうよ。」

杉ちゃんは、そういうことを言っている。

「そうか。そういうひとか。一体誰がいるんだろうな。俺たちの伝えたいことを、水穂さんにより印象的に伝えてくれる人だ。」

「もう、自分の頭の中で感情的になってないでさ、すぐに行動に移そうぜ。」

杉ちゃんにそういわれて、ブッチャーはそうすることにした。急いでスマートフォンを取り、電話番号を回した。

「もしもし、、、。」

「ああ、須藤さんですね。また何かありましたか?」

と、しっかりした男性の声が電話の奥から聞こえてくる。

「また何かあったって。」

「ええ。この番号に電話してくる方は、何か困ったことがあって、話を聞いてもらいたいと思う方ばかりです。」

ありがとう、涼さん!とブッチャーは思った。こういうところで、名前を言わなくても声ですぐ分かってしまう、という誰かの歌の歌詞がぴったりだった。もちろん、恋愛ではないけれど。

「今日はどうしたんですか。何か、困ったことがありましたか?」

「ええ、水穂さんの事です。」

と、ブッチャーは、杉ちゃんと話していた事を、涙をこらえて涼さんにいった。

「どうか御願いです。水穂さんにご飯を食べるように、涼さんの方から説得してください。水穂さんの固まった頭をほぐしてくれるのは、涼さんみたいな専門的な知識がある人ないとできないんです。」

「そうですか。でもそういうことは、あくまでも本人の意思です。僕たちは応援してあげるだけ。それは、忘れないでくださいね。それでは、セッションの日取りはいつにしましょうか。今週は、予約が結構入っていますが、」

「そうですか。来週でかまいませんから、涼さんの都合の良い時間でかまいません。どうか、一度こちらにいらして頂いて、水穂さんの話を聞いてやって下さい。そして、ご飯を食べて頂けるように説得してください。」

ブッチャーがそういうと、

「須藤さん最後まで聞いてくださいよ。予約が入っていると言いましたが、夕方以降でしたら、比較的開いていると言いたかったんです。来週まで伸ばしたら、水穂さんが食べない状態が続いてしまうことになりますでしょ。それではいけないと思いますから、明日か明後日には、富士へ行けるようにしますから。」

涼さんは、おそらく目が見えていたら、にこやかに笑っているだろうなという口調でそう言ってくれた。「ああよかった。ほんと、捨てる神あれば拾う神ありとはこのことだ。じゃあ、明日の夕方、こちらに来てください!」

「分かりました。三時ごろには富士へ行けると思います。富士へ行くのは、久しぶりです。よろしくお願いします。食べないということは、命に関わる事ですから、できるだけ早く、そちらへ行きます。」

ブッチャーがそういうと、涼さんは、冷静に言ってくれた。やっぱり、こういう話をしても冷静なままでいてくれるのはやっぱり、涼さんがそういう専門家だということがよくわかった。杉ちゃんのいう通り、餅は餅屋だ。

「ありがとうございます!じゃあ、明日の三時によろしくお願いします!」

「はい、了解しました。明日、製鉄所の玄関で待っていてくれればと思います。」

涼さんは、優しい声で、そういって電話を切った。ブッチャーは、ああよかったと思ってため息をついて、スマートフォンを置いた。

翌日になって、杉ちゃんが水穂さんに朝ご飯をあげても、昼ご飯をあげても、やっぱり食べたのはたくあん一切れとか、箸休めとして出されている漬物を一切れとか、そういうものばかりで、メインのアボカドサラダとか、高野豆腐等は一切食べていなかった。杉ちゃんさえも、やれやれ、何も食べてないかとため息をついたほどだ。

そして、午後三時になる少し前。ブッチャーが、玄関先を竹ぼうきではいていると、

「タクシーのドアから、正門まで13歩。」

とつぶやいている声が聞こえてくる。ブッチャーは、急いで製鉄所の正門の前に行った。正門の前で、古川涼さんが、白い杖を動かして、正門の様子を探っているのが見えた。

「こんにちは。」

ブッチャーが正門に行くと涼さんは言った。多分、目がみえなくても、ブッチャーが走ってきた事は、気配で分かったのだろう。

「お久しぶりです。須藤さん。お元気ですか?」

「ありがとうございます。俺だってすぐわかってすごいですね。」

ブッチャーがそういうと、

「いえ、きっと、出迎えてくれるのは須藤さんだろうなって、昨日の電話で予測しておりました。水穂さんの事を一寸聞かせてください。水穂さんは、今現在どうされているんでしょう。」

涼さんは冷静に言った。ブッチャーは、急いで涼さんの手を取って、彼に正門をくぐらせ、玄関の引き戸まで歩かせた。いつもの通り、正門から玄関までと数える涼さんだが、ブッチャーは俺がいるから大丈夫ですよ、と言ってそれを辞めさせた。とりあえず、手をつないで製鉄所の建物に、涼さんを入らせ、靴を脱がせて、建物内に入ってもらった。製鉄所の建物が全く段差がないように作られていたのが、こういう時にも使えることは、本当にありがたかった。

「食事をしないことは、昨日の電話で知りました。それだけでも、重大な問題ではありますが、ほかに、水穂さんが、何か問題を起したかどうか知りたいのですが。」

「なんというんでしょうか。俺たちが一生懸命頼んでも、もう疲れ果てたような状態で、意欲的になってくださらないんですよね。なんで、俺たちの事が、伝わらないんだろうと思ったことがあります。」

廊下を歩きながら、涼さんに聞かれて、ブッチャーは答えた。

「もう生きるのは疲れ切ってしまったという表情で、俺たちも、もうだめだというのを感じさせる顔つきなんですが、俺は、そうなって欲しくないんです。俺は、水穂さんには、もうちょっとどころか、すごく、生きようと思って欲しいと思っています。」

涼さんが目が見えたら、こんな説明はしなくてもいいのだろうか。改めて成文化してみると、自分はそういうことを願っているんだな。と、ブッチャーは思った。

「水穂さんは、だって、必要な人ですから。俺たちだけじゃありません。製鉄所のメンバーさんだって、みんな水穂さんに優しくしてもらって、ありがたいと思っていると思うんです。」

「そうですか。分かりました。とりあえず、水穂さんと話をしてみますから。こういう時はデリケートな部分も出てくるかもしれませんので、どうか後生ですから、覗かずに。」

涼さんはそういうことをいうのだ。いつものセリフであるが、これが結構きついものがある。ブッチャーとしては、水穂さんがどんな表情をするのか見てみたかったが、涼さんはそういうことをさせないのだ。

「じゃあ、俺、食堂で待ってますから、水穂さんの事、よろしくお願いします。」

と、ブッチャーは、四畳半の前のふすまに涼さんを立たせると、自分はそそくさと食堂に行った。涼さんは、白い杖でふすまの取ってを探り当てて、自分でふすまを開けた。

「どうしたんだよブッチャー。」

杉ちゃんが、落ち着かないでそわそわしているブッチャーをみて、そういうことを言った。

「水穂さんが心配なの?大丈夫だよ。涼さんはきっとうまくやるよ。」

「そうだねえ。俺、水穂さんが途中で倒れたりしないか、心配なんだけど、、、。」

ブッチャーが言うと、

「まあそうなった時はそうなった時に対処すればいいんだ。」

と、杉ちゃんは平気な顔をしてそういうことを言った。

「涼さん、なんでセッションの様子を人に見せないんですかね?」

しまいには、そんなことを言いだす始末だ。

「まあ、身内というか、あんまりそばにいすぎる人間に見せてしまうと、余計な内紛が起きてしまうかもしれないから、クライエントさんと二人だけにしたいってことじゃないの?」

杉ちゃんがそう返すと、

「そうだねえ、と言いたいところだが、俺は、水穂さんの事が気になるんだよな、、、。」

とブッチャーは言う。

「そうかもしれないけど、そういう風に俺がしてやっているんだから、ありがたく思え的な気持ちでいる人がそばにいると、涼さんもやり辛いんだよ。それだけの事だ。それで我慢しな。もしかしたら、水穂さん、お前さんの悪口を言っているかもしれないぞ。あれだけ世話をしているのに、悪口言われたら、お前さんだって嫌だろう。だから見せないんだ。」

杉ちゃんは平気な顔をしているが、ブッチャーは、水穂さんの事が心配だった。水穂さんは、涼さんと一緒に何を話しているのだろう。杉ちゃんが平気な顔をして、着物を縫っているのがうらやましいくらいだった。自分もそうやって、夢中になれることがあったら、いいのになあ。そう思ってしまった。

「須藤さん、終わりました。」

何分経ったか忘れてしまったけれど、四畳半から声がした。おい待て、と杉ちゃんが言っているのも聞こえないで、ブッチャーは四畳半に突進していく。

「終わったんですか!」

急いでふすまを開けると、涼さんは水穂さんの前に正座で座っていた。

「あの、水穂さんは。」

ブッチャーが聞くと涼さんは眠っていると答えた。ブッチャーは畳や布団などが汚れていないか確認すると、そのような汚れは全くなかった。

「無事に最後まで終わってくれたのでしょうか!」

と、ブッチャーが聞くと、

「ええ、ちゃんとご自身の事を話してくださいました。落ち着いて話すことができますから、精神関係がおかしいということは無いと思います。ただ、」

と涼さんはそう言いかけて言葉を切った。

「ただ、何でしょう。」

ブッチャーが急いでそう聞くと、

「こういうセリフは、須藤さんには言わないほうが良いと思いますね。須藤さんは、今まで通り介護をつづけてください。多分、彼の思っていることが本当であれば、本当に食事をしてくれるようになるのは、まだまだ遠いかもしれません。」

と、涼さんは、治療者らしくそういうことを言った。

「ちょっと待ってくださいよ。こういうセリフってなんですか。俺たちが、知ってはいけないことがあるんでしょうか。俺に言わないほうが良いって、俺は、水穂さんの世話をしっかりしていないということですかね。」

ブッチャーは思わず涼さんにそういってしまう。何か重大な秘密を水穂さんは涼さんに言ったのか?それが原因で食べないということなら、ブッチャー自身もそれは知っておきたかった。

「涼さん、教えてください。俺、水穂さんの世話をする人間として、水穂さんの事は知っておきたいんですよ。そうすれば、水穂さんに食べさせる時、工夫ができるかもしれないじゃないですか。そういう意味もあるから、是非教えてほしいんです。」

「そうですね。これは、僕がセッションに言っているクライエントさんのご家族にも同じことを言っているんですが、ご家族の方は、知らぬが仏ということも実はあるんです。ご家族は、クライエントさんの抱えていることを、知らずに今のままで過ごしていてくれた方が、かえってクライエントさんは回復する事もあります。クライエントさんの秘密を知ってしまうと、余計に関係がこじれてしまって、かえって、関係が難しくなる事例もあるんです。最近は、家族療法というのもあるようですが、それは、本当に必要なご家族がやればいい話で、本人が何とかなれば、立ち直れる事例も実はあるんですね。」

涼さんの言い方は、盲人らしく実に淡々としていて、さらに、空を見上げてしゃべっているように見えるので、ブッチャーは、余計に涼さんの発言を受け入れられない状態になった。

「俺は、水穂さんの家族というわけではないですし、ただの介護者ですから、家族療法がどうのなんて、言わなくていいですよ。ですから、教えてください。水穂さんは、涼さんに何を言ったんですか?」

「申しわけありませんが、僕たちは守秘義務がありますので。」

涼さんは、きっぱりといった。

「須藤さん、帰りのタクシーを御願いしたいんですが、ここで呼べるタクシー会社を教えてもらえませんか?」

いきなりそういわれてもブッチャーは、涼さんにタクシー会社を教える気にはならなかった。何だか、水穂さんの事をさんざん聞き出したのに、介護者である自分には守秘義務があると言って教えてくれない涼さんをブッチャーは、ちょっと、憎々し気な目で見た。でも、それだって、涼さんには通じない事も知っていたから、ブッチャーは余計に、苛立ってしまった。しばらく、ブッチャーと涼さんの間は、沈黙した。

「おい、何をやっているんだよ。涼さんだって次のクライエントさんのところに行かなきゃいけないかもしれないだろ。はやく施術料を払って、タクシー呼んでやれよ。」

車いすの杉ちゃんが、そういいながらやってきてブッチャーはやっと我に返った。目の前には、確かに涼さんがいて、この次はいつにしますかと聞いているのだった。そんな事、もう話したくなかった。もしかしたら、水穂さんはまた、涼さんだけに秘密をもらして、自分には何も教えてくれないかもしれない。そう考えるとブッチャーは、施術料を払う気にもなれなかった。

「ほら、涼さんだって忙しいかもしれないよ。こういうご時世、涼さんみたいな人を必要とする人は、いっぱいいるじゃないか。」

杉ちゃんにそういわれて、ブッチャーは最後にこれだけは聞いておこうと思った。

「涼さん、ひとつだけ教えて下さい。水穂さんは、ご飯を食べてくれるようになるでしょうか?」

「ええ、僕に言ってくれた事が、真実であるのなら、食べないで終わってしまう可能性もあります。」

涼さんも、ブッチャーに視線を向けることはできないが、でも、きっぱりとした口調でそういうことを言った。

「それでは、俺たちはどうしたらいいでしょうか。」

ブッチャーが改めてそう聞くと、

「水穂さんに食べようという気持ちになって貰いたいのであれば、水穂さんに死なないでほしいとだけ簡潔に言ってあげてください。」

と、涼さんは言った。

「はああ、なるほどね、水穂さんそういう馬鹿な事を考えていたのねえ。」

杉ちゃんのほうが、そういうことは早く納得してしまったようであるが、ブッチャーは、全身の力が抜けてしまったような気がした。

「ほら、何やってんだよお前さん。早く涼さんにタクシー呼んでやってよ。」

杉ちゃんに言われて、ブッチャーは直立したまま号泣したい気持ちを一生懸命押さえながら、

「はい、少しお待ちください!」

と、やけくそになったように言った。そのあと、涼さんが何か言ったような気がしたが、そういうことは何も分からなかった。ただ、自分が、水穂さんにこんなに裏切られたのは、前代未聞であったような気がした。

「決して水穂さんはお前さんの事、裏切ったわけではないからね。それは、事実だぜ。」

杉ちゃんに言われてブッチャーはやっと涙を拭いたのだった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷のような 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る