第42話 光と影の境界線
『本日はご来場いただきまして誠にありがとうございます。開演に先立ちまして、二、三注意事項がございます』
開演前のあいさつは、演出である奥寺さんの役目。
「--きたっ」
ウサコが音もなく立ち上がる。
「うひっ」
わたしも慌てて後に続いた。
暗闇の中、転換ズとしての持ち場へと移動する。
『上演時間は約1時間20分を予定しております。最後までごゆっくりとお楽しみください。それでは開演です』
トクントクントクントクントクントクントクントクントクン……。
開演を告げる音楽が徐々に最高潮となり、暗転する。代わって、舞台上には一人の男の姿が浮かび上がる。探偵の
《日田》 あの事件は、とても難解な……いや、不思議な事件でした。みなさん覚えてますか? 黒い鯖。そう、殺された被害者の周りには。幾多の黒い鯖が一緒に残されていました。(手に持った鯖を示して)この黒い鯖はペンキなどで塗られたものではなく、黒焦げになったものです。
わたしは、袖幕の陰から舞台上を見つめていた。舞台には《日田方九》の背後で、パネルを持つウサコ。お客さんが見ているのは、スポットライトの中で喋る《日田方九》。
裏から見る舞台も面白い。
今まで何回も聞いた冒頭のセリフ。
静かだなあ。時間がゆっくり流れているような気がする。
ジジジジジジ……。これは、おそらく照明の音。
お客さんが遠慮がちに咳をする。
《日田方九》の独白が終わり、暗転する。すぐさま、わたしはコメちゃんと協力してテーブルを舞台上へと運び出す。パネルを袖に片づけ、椅子を抱えたウサコも合流する。わたしは、準備していた食器類をコメちゃんに渡して、掛け時計を壁面に設置。リーダーのウサコが、最終確認をして撤収の合図を送る。明かりが入ると、そこは山荘の食堂である。
この間、20秒。
場面転換の時間としては長いらしい。
場当たりの際、八田さんが、
「こんなもん15秒でやれ! 15秒で! 客が寝てしまうわ!」
と、吠えていた。
試しに15秒でやってみたが、無理だった。何回やっても、どこかしらミスが出てしまうので、結局20秒ということになった。こんな戯曲を書いた奥寺さんが悪いのよ。こっちは、いい迷惑。
物語は、無事に第一幕へと進行した。
ホッとしたわたしは、ウサコに声をかける。
「この調子でがんばろ」
「おう」
ウサコは、オスカーを手中にしたハリウッド女優のような笑顔で答えた。
次は、いよいよ役者としての出番。
わたしとウサコは、二人ともに着るのが面倒な衣装なので、お互いに協力し合い、狭い舞台袖で着替えを終えた。
衣装を着ると身が引き締まる。と、同時に緊張の度合いが増してくる。頭に星の飾りをつけて、全身銀色のあり得ない衣装だけど……。
「ほら、綺麗になった」
巨大なひよこ饅頭になったウサコが、わたしの髪を整えてくれた。
「--プッ」
わたしは、思わず吹き出してしまった。
「何よ?」
ウサコがそれを見咎める。
「いや、違う違う。真っ暗な中、こんな格好で息を潜めてるのって面白いなあ、と思って」
「はしゃいでんじゃないよ、バカ」
ウサコの顔は、気合いが入りまくりだった。
ウサコが静かにストレッチを始めたので、わたしは再度、セリフの確認作業をすることにした。繰り返し、何十回と稽古した場面。当然、全て覚えてしまっているんだけど、そうせずにはいられなかった。
そうこうしているうちに、わたし達より一足先にコメちゃんが初舞台を踏んだ。
どこかぎこちない気もするが、それでも
その《芸能プロダクションのマネージャー》役のコメちゃんが、《アルフェッカ&プレアデス》を呼び込むのはもう間もなくである。
「ふぅー」
わたしは、小さく深呼吸をした。心臓が本当に口から飛び出しそうなくらい、激しく脈打っている。袖幕の陰で、わたしが先、ウサコがその後ろにスタンバイした。目の前では、キャストが一同に会するパーティーの場面が繰り広げられている。
--ここにわたしも入っていくのか……。
にわかには信じがたい、夢の中での出来事に思えてきた。
違う。これは現実。わたしは、今まさに初舞台を踏もうとしている。
わたしは役者で、これからお客さんの前で演技を披露するんだ。もう一度思い出せ、わたしがここに至った理由を。
中学時代は、なーんにも楽しいことがなかったじゃない。また、同じ時間を過ごすの? 舞台に立てば何もかも変わるんだよ。もう、すでにわたしは変わりつつある、たぶん。ゴールはもう目の前……できる! できるできるできるできる……。
わたしの足元には、光と影の境界線がはっきりと作られている。照明が当たるその先は演技スペース、つまりは舞台。一歩、踏み出せば、もう後戻りはできない。隠れる場所もない。
テレビや映画なら、カメラが自分にさえ向けられていなければ何をしていても極端な話、かまわないのだが、舞台ではそうもいかない。舞台上のどこを見ていてもお客さんの自由だ。セリフを喋っている役者を絶対に見ていないといけないという事はない。
照明が当たる舞台へと一歩、足を踏み出せば、一瞬たりとも気が抜けない。自分の役割を終えて舞台袖へと
……って、そんなこと本当にわたしにできるの?
わたしの出番なんて5分くらいしかないんだけど、1秒たりとも素のわたしを見せられない。そんなこと……。
ついさっきの決意はどこへやら。わたしのメンタルは、雪山の天気の百倍変わりやすい。いや、でもだって、舞台に実際に立ってこそ、駄目なわたしが変わるわけでしょ? じゃ、今のわたしは駄目なカメのままじゃん。そんなわたしがお客さんの前に出て行って何をするっていうの? コント? そんなバカなことって……、今から代役って無理だろうか。
光と影の境界線。その先へと踏み出す一歩が、とてつもなく重く感じられた。
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