第35話 カメとウサコ

「……何? 離してよ」

「だめっ」

 ウサコがわたしの手を振り払おうとしたので、握った手に一層の力を込めた。


「痛いって! 何してんの、あんた」

「辞めるってどういうことよ?」

「……それは、カメやコメちゃんには悪いと思うけど。あんただって、辞めたがってたじゃない。分かるでしょ? あたしのやりたい役はこんなのじゃない」


「だから辞めるって言うの? どの口がそんなことを言うの?」

「はあ?」

「あんたみたいなド素人に、役を選ぶ権利なんてあるわけないじゃない! そんなの本当にハリウッドスターになってから言えよ、この大根!」

 わたしは、全て自分に返ってくる特大ブーメランになっているのにかまわず、わめき散らす。


「ふざけんじゃないよ! わたし達が三年生になったら一緒に最高の舞台を作るって、あんたが言ったんでしょう!? そんなの無責任でしょうが! もう忘れたと言うんなら、あんたの頭は鳥以下よ!」


「うるさいっ! あたしに頼ってばかりで、一人じゃなんにもできないくせに偉そうなことを言うな! ひっくり返ったら、起き上がることもできない鈍ガメがっ!」


 気がつくと、初めての割には良い音を残して、わたしはウサコの頬を平手で打っていた。ウサコの金髪がスローモーションのように、なびいて見えた。


「……上等じゃん」

 ウサコがそう言うと、息を呑む間もなく、わたしの側頭部を強い衝撃が襲った。

「キャッ!」

 七海さんが悲鳴を上げた。


 耳の奥でキーンと音が鳴り、膝がガクガクと震えているにもかかわらず、わたしの口は尚も動き続けた。


「……しっ、し知ってるわよ、わたしが一人じゃ何もできないことくらい! あんたなんかに頼らなきゃいけないわたしの不幸も、少しは考えてよね!」


「このバカっ……」

 ウサコが、乱暴にわたしの髪の毛を掴み引っ張ってきた。

「痛いっ!」

「やめて……やめなさいっ! 米山くん! ボーっと見てないで、二人を止めて!」

 七海さんが叫んだ。


 コメちゃんが、

「まあまあまあ……」

 と、わたしとウサコの間に割って入ってくるが、ウサコは尚もわたしの頭を掻きむしってきた。髪留めのゴムがはずれて、髪の毛がバサッと顔の前に落ちてくる。


「痛いって! 何すんのよ、バカ!」

「カメの方がバカだ!」

「二人ともやめてッ!」

「まあまあまあ……」


 揉みくちゃになるわたし達の中に、突然、黒い塊が突進してきた。驚いたわたし達の動きが止まる。黒い塊は、ハッハッハッ、と荒い息づかいをしながらウサコの足にまとわりついた。


「こらーっ、クロ!」

 わたし達が振り向くと、近所に住んでいる小学生のハットリと、さらにその先には白衣を着たおじさんがいた。

 えーと、あの人は誰だっけ……?


「ごめんごめん。僕がちょっとリードをはずした隙にこれだもん。おねえちゃん、大丈夫?」

 ハットリがウサコの側に駆け寄った。

 頭に血が上ったウサコが、クロを蹴り飛ばしやしないかと冷や冷やする。


 しかし、ウサコは不意にしゃがみ込むと、

「おお、クロ! あたしに早く会いたかったんだろ? この可愛いヤツめ」

 と、クロの顔を撫で回した。


 クロは千切れそうなほど尻尾を振って、お返しとばかりにウサコの顔をペロペロと舐める。

 それを見たわたしは、大きく息を吐き出した。


「練習の邪魔をした? 次の公演に、カメや金髪のおねえちゃんが出るんだったら、すっごい面白くなりそう!」

 何も知らないハットリが、無邪気な笑顔を向けてきた。


「金髪のおねえちゃんじゃなくて、ウサコよ」

 気さくに答えるウサコだが、その表情はまだ強張っていた。

「ウサコ?」

 ハットリはきょとんとした。


「ハットリ、ジュース買ってあげよっか? コメちゃん、一緒に行ってわたし達の分も買ってきてぇ」

 七海さんが財布から千円札を取り出して、コメちゃんに渡した。コメちゃんは顔を赤らめて、ドギマギした様子。


「本当? ありがとう、おねえちゃん!」

「よーし。行くぞ、ハットリ!」

 コメちゃんは、子供番組に出てくるお兄さんのような爽やかな笑顔でそう言うと、軽やかな足取りでハットリとクロを引き連れて行った。

 いいね、彼は平和で……。

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