第36話 ハットリの秘密
時刻は午後六時を少し回っており、辺りは次第に薄闇に包まれつつあった。人気もなくなっていた中庭に、わたし達三人だけが取り残される。
グラウンドから運動部の掛け声、旧学生棟から吹奏楽部の練習をしている音だけが聞こえた。
「……どうも、すみません」
わたしは、七海さんに頭を下げた。
しかし、七海さんはハットリ達の後ろ姿を見つめたまま、何も言ってくれなかった。
わたしは、隣のウサコに視線を移す。
ウサコはバツが悪そうに目を逸らしたが、
「七海さん、すみませんでした。でも……」
と、消え入りそうな声で謝った。
でも……何? やっぱり、もう終わりなの?
ウサコは、彼女には似合わない今にも泣き出しそうな顔をしていた。たぶん、わたしも同じ顔をしていたと思う。
「……ねえ、亀岡さんに兎谷さん」
七海さんが重い口を開く。
「ハットリはどこから来てるか知ってる?」
「……?」
わたしとウサコは顔を見合わせた。
「えーと、この近所に住んでるんじゃ……」
「あっちを見て。あんまりじろじろ見ないようにね」
わたし達は、七海さんが目で示した方向を確認した。その先には、あの白衣を着たおじさんがいた。
「分からない? じゃあ、この先の国道沿いを少し行ったところに大きな病院があるのは知ってる?」
「はい」
と、ウサコが答えた。
「ハットリはその病院から来てるのよ」
--え?
「考えてもみて……もし仮に近所に住んでたとしても、こんなに頻繁にわたし達のところになんて遊びに来ないでしょ。同い年くらいの友達と遊んだ方が楽しいに決まってるもん」
「じゃあ、あのおじさんはお医者さん?」
わたしは、少し目眩がした。
「二人が演劇部を辞めるのは仕方がない。残念だけど、わたしにそれを止める権利はない」
そのとき、七海さんの目から大粒の涙がこぼれる。
「でも、今日だけ--今日だけは、ハットリに二人の練習を見せてあげて。なんだか二人のことを、とても気に入ってるみたいだし。いずれにしろ……」
愛らしい先輩は、はらはらと涙を流し続けた。
「いずれにしろ、本番は来れるかどうか……分からないから」
人にこんなふうに涙ながらに何かを訴えかけられるなんて、それこそドラマやお芝居の世界だけの事だと思っていた。
それは全て現実味のない事実。
それを知った、わたし。
わたしは--、
「ああああああーーーっ」
突然、ウサコが雄叫びを上げた。
わたしと七海さをは、とんでもない状況にたじろぐ。
ひいいいいっ……。
一歩、二歩とわたしは首を縮めて後ずさった。
--いや、だめだ。だめだ、だめだ、だめだ、だめだ! ここで引いたら、だめ……!
わたしは勇気を振り絞り、
「うわああああああーーーっ」
力の限り叫んだ。
わたしは負けない。カメは負けたくない。ウサギさんと肩を並べたい。勝負がしたい。見放されたくない。友達でいたい。そして、それはきっと、わたし達の演技に期待してくれている初めてのお客さんのためにもなるから!
わたしとウサコは顔を突き合わせて睨み合い、息の続く限り感情をぶつけあった。
「わかった!」
ウサコが元気よく言った。
「何が?」
「あたしたちの役のことに決まってるでしょうが。アホになれば良いんだよ、アホに!」
「今頃、気づいたの? わたしは最初から知ってたよ、そんなこと!」
「ウソつけ。カメなんかずっとビクビクしながら、セリフを読んでるだけじゃん。こんなふうにさあ」
ウサコは、肩をすぼめてなよなよと動いて見せてきた。
「そ、そんなヤツいないよ!」
「だーかーら、演技してる時のカメはこうなんだよ」
「ウサコだって、ずっとムスッとしたまま、偉そうに突っ立ってるだけじゃない!」
「違う! あたしはそんなんじゃない」
「一番、間近で見てるわたしが言うんだから間違いない!」
「違う!」
「違わない!」
「わあ、ちょっと待って! 二人ともやる気になってくれたんじゃないの?」
慌てた七海さんが再び間に入るも、わたし達は睨み合いを続けた。
「……とにかく、あたしの足を引っ張るなよ! カメ!」
「それはこっちのセリフよ!」
「大きい声を出して、どうかした?」
ハットリがコーラを片手にクロを引き連れて、勢いよく戻ってきた。
「おねえちゃん、ちゃんと皆んなの分も買ってきたよ」
その後ろから、人数分のジュースを抱えたコメちゃん。クロが尻尾をふりふり、ウサコに飛びついた。
「七海さんはどれが良いですか?」
コメちゃんが、はにかみながら尋ねた。
「僕、おねえちゃんの好きなヤツ知ってるよ。これでしょ?」
ハットリは、コメちゃんが抱えているジュースの中から一つを選び、七海さんに差し出した。
「よく知ってたね。ありがとー、ハットリ!」
そう言われたハットリが、照れ笑いを浮かべる。
「……」
その様子をコメちゃんが悪魔のような顔で見つめていた。
気持ちは分かるけど、やめてあげて。相手は小学生だし、ね?
「カメと金髪のおねえちゃんは、これで良かった?」
ウサコはハットリからジュースを受け取り、
「あたし達、今から次の公演の練習をするんだけど見ていってくれる?」
「あ、おねえちゃん達も出られるようになったんだ」
「当然。あたし達が出ないで誰が出るって言うのよ。ねえ?」
ウサコがわたしに目配せをした。
「えっ? あ、そうそう……」
少し気を抜けば、すぐに弱気の虫が顔を出す。
わたしは夢中で頭を振って、両手でパンパンと頬を叩いた。
「--っ!」
痛い……、忘れてた。
急速に感覚が戻ってくる。右の頬がとんでもなく熱い。
「まだ気合いが入り足りないの? もう一発いっとく?」
ウサコが不敵に笑った。
「もういいって! おかげさまで口の中が十円玉の味になってるし……」
「えっ、本当に? ごめん」
ウサコは長い
--ちっ! このウサコの美形に傷の一つもつけられなかったことが全く悔やまれる。
「何を笑ってるの?」
ウサコが言った。
「えっ?」
初めて味わうその味は、なんだかわたしを強くしてくれそうな気がした。
舞台という非日常の空間が自分を変えてくれるんじゃないかと期待して、演劇部の門を叩いてから二ヶ月。目的である本番の舞台は、まだもう少し先にあった。
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