第29話 小物

 …………小物?

 わたしの反応を気にせずに、八田さんは機嫌よく続けた。

「お前以外に誰がおるっちゅうねん。ゲロ吐かんと『かめさん』は歌えるようになったんか? 小物!」


 言うに事欠いて、小物て。さすがは大物のおっしゃることは違いますねえ。いやもう、当たりも当たり、大当たり。わたしを一言であらわすのに、こんなに適当な言葉は他にありません。でも、まさか他人にそんなふうに呼ばれることが実際にあるなんて。世間は広い。

 井の中のカメ、大海にのまれる。


 確かにわたしは小物です。反論の余地はございません。だけど、わたしにも『亀岡香月』というちゃんとした名前がある!

 怒りが恐怖を上回る。顔面蒼白になっていたかもしれない。


「何や、その目は? 俺が聞いといてやるから歌ってみろや。また、ゲロ吐いたら、お前はホンマに演劇部うちは辞めとけよ。そんなヤツが役者なんかできるわけがないやろが」


「八田!」

 七海さんの良く通る声が響いた。

「外野は黙っとけ!」

 八田さんの剣幕に、七海さんと烏丸部長の動きが止まった。

 やめて……やめて、やめて、やめて……わたしのせいで!


 手が痛い。気がつくと、わたしは力いっぱいに拳を握りしめて八田さんの前に立っていた。

「さっさとやれや、小物」

 八田さんが冷たく言い放つ。


 もうどうなってもいい。できることなら蹴り飛ばしてやりたい……そんな衝動をなんとか抑え込んでいると、ウサコが急に腕を引っ張ってきた。


「向こうに行ったら、すぐに歌うんだよ。何も考えちゃダメ。いい? すぐだよ、すぐ」

 ウサコはそう耳元で囁き、わたしのお尻をジャージの上から思いきりつねった。

「いっっっっっ!」

 飛び上がってしまうほどの激痛。肉……! わたしのお尻の肉がその辺に落ちてない!?


 わたしは八田さんに罵声の一つも浴びせてやりたかったが、それも叶わず、ウサコにもの凄い力で前に押し出された。

「いいから、ほら! すぐすぐ!」

 わかったよっ! すぐすぐすぐすぐって、あんたは駅前徒歩1分か!?

 わたしは、シッシッと犬にそうするように手を振るウサコを睨みつけた。


 まったく、この兄妹は……。わたしが死んだら末代まで祟ってやる!

 わたしは、中庭の中央から元いた場所を振り返った。八田さんが偉そうにこちらを見ていた。


 いくぞ! すぐだぞ、すぐ!

 わたしは素早く息を溜めて、既に満杯になっていた感情を空に向かって開放した。

「もぉっし! もぉっし! かあめよっ! かあめさんよおおおおおおおおおお」


「ああっ!? 全然聞こえへんぞ、小物っ! 辞めるかー!?」

 八田さんが叫ぶ。

 ああああああああ、もうっ! こんなに腹の立つヤツがいるなんてっ! ジィィィザァァァスクライストッ!!


「あああゆみののろいっっ! ものはないっっ! どおおおおして、そんなにのろいのかああああああっっ!」

「おら、もう一回や! 小物っ!!」


 わたしは怒りに任せて、繰り返し歌う。まだ、八田さんは何やら大口を開けて叫んでいたが、もうわたしには何も聞こえなかった。


 結局、わたしは『かめさん』を何回歌ったのだろうか。気がつくと、烏丸部長が笑顔で拍手をしていた。

 興奮冷めやらね中、肩で息をするわたしを、八田さん以外の皆んなが拍手で迎えてくれた。


「すごい、すごい! ちゃんとできてたよぉ!」

 七海さんが目を三日月形に細めて、ぴょんぴょんと飛び跳ねてきた。

 えっ、本当ですか……?

 さらに烏丸部長が無理矢理、わたしの手を握ってくる。


「良かったよー! 前に吐いちゃった時は、俺もどうしようかと思ったけど……。今日はまるで人が変わったかのように、危ないヤツだったね!」

「え……?」

 わたしは後ろを振り返った。こちらを見て何やら話をしていた女子生徒達は、わたしと目が合うやいなや目を逸らした。


 トップスピードで首を逆に回す。わたしの視界には、そそくさと逃げ出す生徒達の背中だけが映った。

 ええーっ!? いや、違うんですよ! ち、違う……わたしもあなた達と同じ良識ある普通の生徒なんですよおおおおおお!


「ほら、八田からも何か言えよ! お前がやらせたんだろ!?」

 八田さんは烏丸部長に詰め寄られて、

「もう飽きたわ。おもんない」

 と、言い残して大股でどこかへ歩き去ってしまった。


「あんなヤツのことなんか気にしなくて良いからね! あいつ、バカだから!」

 烏丸部長が言った。

 ウサコがわたしに目配せをしてくる。彼女の笑顔は、わたしのささくれ立っていた心を癒やしてくれる……ことはなかった。

 ウサコの顔を見た途端、お尻が激しく痛み出したからだ。

 絶対、やり返す……!






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