2.僕の母は水神様

 水の女神が住まう湖。

 その名前はスエイレンという。

 世界一長い川の果てに出来上がった大きな湖で、周囲は緑豊かな森に囲まれていた。

 かつては信仰の対象であり、その周囲には集落もあったという。

 しかし今は、集落以前に人もほとんど近寄らない。

 広大な森に囲われ、そこに魔物が生息するようになってから、危険だからと誰も近寄らなくなってしまった。

 と、母さんが話してくれた。


「っと、この辺りで待つかな」


 僕は木に颯爽と駆け登り、太い枝の上から周囲を見渡す。

 獣の足あとが残っていることを、地上を歩いている時に確認済みだ。

 予想ではこの辺りにイノシシがいるはず。

 そう考えて注意深く目を凝らしていると……


「見つけた!」


 茂みの影からイノシシがひょっこり顔を出した。

 こちらにはまだ気づいていない様子で、呑気にノソノソ歩いている。

 僕は音を殺して背中に担いでいた弓を取り、腰に巻いた矢筒から一本の矢を抜く。


「ちょっと遠いけど」


 この距離ならギリギリ狙い撃てる。

 弓矢を構えた僕は、目を細めてイノシシの頭に狙いを定める。

 スゥーハーと大袈裟に一呼吸して、手のブレが治まった瞬間に矢を放つ。

 空気と落ちる木の葉を穿ち放たれる矢。

 矢を射った音にイノシシは反応して顔を向けるが、その瞬間に矢が脳天へと突き刺さる。

 痛そうな鳴き声をあげて、目を見開いたまま地面に倒れ込んだ。


「よしっ!」


 ガッツポーズをした僕は、トントンと下の枝を伝って飛び降りる。

 横取りされないように駆け寄って、イノシシの状態を確認する。

 矢はちゃんと命中して、他に目立った傷はない。

 思ったよりも大ぶりなイノシシだったらしい。

 僕はイノシシの脚を縛り、担ぎやすいようにしてから肩に担いで持ち帰ることにした。


「これだけ大きいと数日はもつかな~ 日干して乾燥させればもっと長くもつよね」


 森で生活していると、中々肉にありつけない期間もある。

 今回だって十日ぶりの肉に興奮していた。

 お魚だって嫌いじゃないけど、毎日食べているとどうしても飽きてしまう。

 そんなことを言ったら、きっと母さんは怒るだろう。

 いや、母さんは優しいから、この程度じゃ怒ったりしないか。


 カーカーと烏が鳴く。

 気付けば太陽は西に沈みかけ、オレンジ色の光が森を照らしていた。


「あ、早く帰らないと!」


 好き嫌いより、帰りが遅くなる方が怒られる。

 僕は仕留めたイノシシを担ぎ、急いで母さんの待つ家へと走った。

 生い茂る木々を抜け、視界に飛び込んでくるのは大きな湖。

 文字通り母なる湖。

 その辺に立つ小さな木の小屋まで駆け寄って、僕は扉を開ける。


「ただいま! 母さん」

「あら、お帰りなさいアクト」


 帰宅するとウルネ母さんが優しい笑顔で出迎えてくれた。


 僕が仕留めたイノシシと、湖で取れるお魚。

 それに家の隣で栽培している野菜を使って、母さんが夕食を用意してくれた。

 今日はいつもより豪勢だ。


「いっただきます!」

「いただきます」


 僕たちは二人、向かい合って手を合わせた。

 母さんの料理は格別だ。

 他を知らないけど、たぶん世界で一番おいしいと思う。

 夢中でパクパク食べていると、お母さんがそんな僕を眺めながらニコリと笑う。

 いつもの母さんの笑顔にホッとする。

 でも今は、その笑顔は少しだけ悲しそうだった。


「アクト、あなたも今日で十歳ね」

「え? あ、そうだったっけ?」

「ええ」


 そうか。

 だから夕食も豪勢なのか。

 僕の誕生日だから。


「誕生日おめでとう」

「ありがとう母さん!」

「……母さん。そうね、やっぱりもう話すべきかしら」

「ん?」


 母さんは食具を置いて、改まった表情で僕を見る。

 いつもと違う母さんの雰囲気に、僕も食べる手を止めて真剣に聞くことにした。

 そして――


「アクト。あなたに話さなくてはいけないことがあるわ」


 母さんは語ってくれた。

 自分が人間ではなく、水の女神様であることを。

 僕は大国に生まれた第四王子で、生まれてすぐに川に流され捨てられたこと。

 母さんが僕を拾って、今日まで育ててくれたこと。

 僕たちが、本当の親子ではないのだと……教えてくれた。


「ずっと黙っていてごめんなさい。あなたを悲しませたくなかったの」

「謝らないでよ、母さん」

「アクト……」

「そんな顔しないで。僕だって、ちょっとは気付いてたんだ」


 母さんが普通じゃないこと。

 それに僕はたぶん、母さんの子供じゃないんだってことも、何となく察していた。

 母さんから人間の集落や国についても教えてもらっていたから、僕がいる環境のおかしさも気づいていたよ。

 でも――


「そんなこと気にしてない。僕が誰でも、母さんが神様でも関係ないんだ」


 そうだ。

 関係ない。


「アクト……」

「僕の母さんは、ウルネ母さんだよ! 悲しくなんてないんだ! 母さんと一緒だから、僕は毎日とっても幸せなんだよ」


 それは心からの言葉だった。

 嘘偽りなんてない。

 僕はとても幸せで、その幸せを作ってくれたのは紛れもなく、ウルネ母さんだ。

 だからもし、言いたいことがあるとしたら一つだけ。


「母さん、育ててくれてありがとう」


 それ以上の言葉はない。

 僕はこれからも、母さんの子でありたいのだから。


 

 

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