3.15歳の誕生日

「スゥーフゥー」


 深呼吸をして集中力を高めた僕は、眼前の水面に一歩を踏み出す。

 普通は沈む。

 だって水はそういうものだから。

 湖の水は静かで、風がなければ鏡のように反射する。

 僕は今、その上に立っていた。

 沈んでいるのではなく、水面に立っている。

 目を瞑り、集中して水という存在を強く意識する。

 これは魔力操作の訓練だ。


「流れ……留まり――満ちろ」


 水面に波紋が発生する。

 立っている僕を中心に広がり、湖の淵まで届く。

 今の僕は、水と一体になっているような感覚だ。

 実際に身体の一部が水に溶け込んでいるような気さえしている。


「……これくらいでいいか」


 瞑っていた目を開け、僕は水面を強く蹴って湖から辺へ移動した。

 蹴った地点には一つの波紋すら発生していない。


「美しいわ、アクト」

「母さん! 見ていてくれたんですか?」

「ええ」


 いつの間にか母さんが後ろに立っていた。

 相変わらず自然に溶け込むのが上手い人で、魔力による感知も機能しない。

 それもそのはず。

 母さんは人間ではなく水の女神様なんだ。

 それを教えてもらった日からちょうど五年。

 僕は今日で十五歳になる。


「今夜はご馳走を用意してあるわ」

「本当? ありがとう母さん」


 母さんの料理は相変わらず最高に美味しい。

 この十五年ずっと食べてきて、一度も飽きは来なかった。

 あまりに好きすぎて、他の物が食べられなくなるんじゃないかと心配するくらいだ。


 日課の訓練を終えた僕は、母さんと一緒に家へ帰った。

 小さかったこの家も、数年かけて少しずつ補強したり、広くしている。

 一階建てが二階建てになり、雨風に耐えられるように壁を二重にしたり。

 母さんは何でも知っているから、その知恵を借りて僕が造り直した。

 食卓に向うと、テーブルに並べられた豪華な夕食が目に入る。

 母さんが自分で言っていたように、今夜はご馳走だ。


「いただきます!」

「いただきます」


 楽しくて、落ち着く夕食の時間。

 母さんの二人の生活は穏やかで、とても心地良い。

 こんな日がずっと続けば良いと、僕は心から思っている。


「アクト、誕生日おめでとう」

「ありがとう母さん」

「……あなたも今日で、人間としては成人になったわね」

「そうだね」


 母さんが寂しそうな顔をしている。

 ああ、まただ。

 きっとあの話をされるに違いない。


「ねぇアクト、もうそろそろここを出る気はない?」

「……」


 僕は食事の手を止める。

 思った通り、その話を持ち出された。

 これで何度目だろう。


「あなたは真面目で誠実な子に育ってくれたわ。あなたならきっと、どこでだって生きていける。こんな何もない場所にずっといても……」

「前にも言ったでしょ? 母さん、僕はここでの生活に満足してるんだ。何より母さんと一緒にいられるから」

「アクト……ありがとう」


 母さんの瞳がうるんでいる。

 嬉しさよりも、悲しさのほうが籠った涙がポツリと零れる。


「あなたは優しい……だけど、わたしはもう永くないの。それも話したでしょう?」

「……わかってるよ」


 母さんは神様だ。

 本来なら人間みたいな寿命の概念は存在しない。

 だから死という概念もない。

 ただし、死はなくとも終わりはある。

 母さんのように世界の創造後に誕生した神様は、信仰の力で自身の存在を保っている。

 人々に崇められ、奉られ、敬われることでこの世に存在していられる。

 故に、信仰が弱まれば力も弱まってしまう。


「わたしは永くもったほうよ。旧友はもう先立ってしまった……わたしにも、とうとうその時が来たのよ」


 わかっていたことだ。

 ずっと傍で見てきたから、母さんの力が弱まっていることにも気づいていた。

 この話を最初に聞かされた時だって、悲しかったけど驚きはしなかった。

 人間には死がある。

 だから必ず別れがあって、親子の間にもそれがあって当然。

 そう教わっていたから……なんて、納得できるわけがないんだ。


「僕は……諦めないよ」

「アクト?」

「母さん、僕の話を聞いてほしい」


 ずっと話したいことがあったんだ。

 それを今日言うと決めていた。

 人間にとっての成人、大人になる今日という日に。


「僕は母さんが大好きだ。捨てられた僕を育ててくれたことも感謝してる。恩返しがしたいって、ずっと思ってた」

「それは……違うわ。感謝してるのはわたしもよ。永く一人だったから、誰かと一緒にいられる時間は……本当に嬉しかったの」

「母さん……」

「だから、もう十分よ。わたしは十分、あなたから幸せを貰ったわ」


 母さんは涙を流しながら優しく微笑む。

 幸せそうな笑顔で、満ち足りたように。

 僕だって幸せだ。

 世界一幸せな男だと思ってる。


「それでも僕には、僕には足りないんですよ。母さんともっと一緒にいたい。こんなことでお別れなんて嫌だ」


 いつの間にか、僕の瞳も潤んでいた。

 情けなくなって、慌てて涙を拭う。


「親離れ出来てない子供と笑ってください。でも僕は、この先の未来で母さんにいてほしい。僕が何年生きられるかわからないけど……誰かと結ばれて、子供を作って、孫が出来て……」


 遠い未来の、その幸せな時間に母さんもいてほしい。

 僕や僕の子供たち、子孫たちをこれからも見守っていてほしい。

 親から子へと意志は受け継がれ、絶えることなく続いていく。

 そうすればきっと、母さんは孤独じゃなくなる。

 そのために――


「母さん。僕は――魔術師になるよ」

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