お腹が減っているわけではないんだよ

飛鳥休暇

それが何かは分からないが

 香澄かすみ先輩とセックスした翌日の帰り道。

 それでもおれの足取りは重かった。


 満足感よりも虚無感が身体を侵食し、全身が徐々に黒くなっていく感覚がしていた。


 無意識のうちに、ふと見つけた小さな公園の中に入り汚れた木製のベンチに腰掛けた。


 時刻は昼前くらいだったので少し離れた遊具のほうから子どもたちの楽し気な声が聞こえていた。


 おれは地面に浮かんだ自分の影に飛び込むような格好で頭を深く下げてうなだれた。




 ――あてつけってわけじゃないけど、わたしたちもしよっか。



 昨日の香澄先輩の言葉が耳元で響く。


 大学に入った当初から憧れていた一つ上の先輩。


 可愛らしくて笑顔が素敵で、気が付けばずっと目で追っていた。



 たまたま入ったフットサルサークルの中で、マネージャーの立ち位置の香澄先輩はみんなのアイドルだった。


 しかし当然、そんな彼女を男が放っておくはずがなく。


 香澄先輩はサークル内で一番のイケメンである達己たつみ先輩(おれから見れば二つ上の先輩だ)と付き合っていた。


 他のメンバーも口ではお似合いだと言ってはいるが、内心は羨ましくて仕方がないことだろう。


 事実、二人がいない場所では男連中が香澄先輩に対する卑猥な冗談で盛り上がっていた。


 おれはそんな話題が出る度に、それとなくその場を離れた。


 カッコつけるわけではないが、自分のものではもちろんないが、どうしても香澄先輩がはずかしめられている言葉を聞く気にはならなかった。



 今回のことは本当にたまたまだった。


 昨夜、バイトの帰り道、うなだれるようにして歩く香澄先輩を見つけて思わず声を掛けてしまった。


 顔を上げた香澄先輩の目は真っ赤に腫れていて、それを見て戸惑うおれに対して取り繕うような笑顔を見せてきた。


「なにかあったんですか?」とかろうじて出た言葉を聞いたとたん、香澄先輩はべそべそと泣き始めた。


 ――その後、どうして香澄先輩の家に行く流れになったんだっけ。



 香澄先輩の家に入り、そのまま彼女が落ち着くまで身体を縮こまらせてクッションに座っていたような気がする。


 話を簡単にまとめると達己先輩が浮気をしていたらしい。


 しかも香澄先輩と付き合う前からその女との関係があったと。


 おれはその話を聞きながら下唇をずっと噛んでいた。


 憧れの人の失恋話ほど辛いものはない。なぜならその端々にまだ彼に対する思いがほの見えるからだ。


「おれなら……。おれなら絶対に香澄先輩を悲しませるようなことはしないのに」


 胸からにじみ出た思いが喉で形を作り、漏らした吐息と共に言葉となって口をついて出た。


 香澄先輩は一瞬だけ目を見開き、おれの言葉を反芻はんすうし、そして笑った。


「君は優しいんだね。……じゃあさ。あてつけってわけじゃないけど、私たちもしよっか」


 ふいに香澄先輩の匂いが強くなったかと思うと、気が付けば唇に柔らかな感触があった。




 その後のこともあまり覚えていない。


 それは必死だったからか、現実感がなかったためか。



 行為が終わったあと、隣で寝ている香澄先輩がぼそりと「大した事ないんだね」と呟いた。


 それは浮気をするということに対してか、それともおれのテクニックなんかについてなのか。


 聞く勇気もなかったおれは「そう、ですね」と曖昧に返事をした。




 そしていま、公園のベンチに座っている。


 色んな感情が浮かんでは消える。


 ずっと好きだった。


 ずっと好きだった人とセックスをした。


 それだけ見れば喜ばしいことなんだろう。


 でも、心は驚くほど満たされていない。


 香澄先輩の中には未だに達己先輩がいる。そんな気がする。


 あんな男に、なんて黒い感情が渦巻いて、そして自分を顧みてまた落ち込む。


 おれは代わりにすらなれない。


 もう少し図太い神経があれば、香澄先輩と身体だけの関係でも続けられたのだろうか。


 そんな考えがよぎることにすら自分で嫌悪感を抱いてしまう。


 こんなことなら無くてよかった。


 無かったらよかった。昨日、香澄先輩を見つけなければよかった。


 暗い色の感情ばかりが頭を支配していく。




 気が付けば泣いていた。


 悔しいのか、情けないのか、ふがいないのか。


 失恋とも言い切れないこの思いはなんなのだろう。


 いっぱいになった名前のない感情がひび割れた心から溢れ出してくる。




「おにいちゃん、ないてる?」



 ふいに聞こえた声に顔を上げると、遊具の辺りにいたであろう幼い少女――三歳くらいだろうか――がすぐそばまで来ていておれの顔を指していた。


「あ、あぁ。なんでもないよ」


 取り繕うように目をこすって涙を拭う。


「あーぱーまん、よぶ?」


 少女が心配そうに言ってくる。


「あーぱーまん? ……あぁ、アンパンマンか。いや、お兄ちゃんはお腹が減ってるわけではないんだよ」


 そう言ってぎこちなく笑う。



「こら! まーちゃん、ダメでしょ!」


 少女の母親らしき女性が慌てた様子で駆けてきて少女を抱きあげて申し訳なさそうに頭を下げる。


「おにいちゃん、ばいばい」


 母親の背中越しに手を振ってくる少女に向かい、おれも軽く手を振って返す。



「……帰るか」


 少しだけ気力が戻ったような気がして腰を上げる。



 ――お兄ちゃんはお腹が減ってるわけではないんだよ。


 先ほど少女に返した言葉がなぜか頭にひっかかる。



「……じゃあ、なにが減ってるんだろうな」


 小石を軽く蹴って呟く。




 きっと何かが減ったんだろうな。


 ――それが何かはわからないが。 




【お腹が減ってるわけではないんだよ――完】

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