第5話 屋敷に住まうもの(一)
「あいにく主人は、長く留守にしておりまして」
男はやはり家令で、ずっと、ひとりで屋敷を守っているのだという。
親方は、ここのことを、場所柄と造りから、週末や休暇を過ごす屋敷のように考えていたが、こうして中を案内されていると、腰を据えてなにかをするために建てられたものか、と、思われてきた。
何しろ、奥には書庫があると申すのである。当然、書き物のための調度品も整っていると。
「思索のための小部屋が、屋敷のあちらこちらにあります。
妙に映りましょうが、ふいの思いつきに、すぐもぐり込めるようにとのことでして」
「ご主人は、遠くにお住まいなのですかな」
「いいえ。
ごく近くで仕事を持っておりまして、そちらがおかげさまで、多忙なようすなのでございます」
「お仕事でご多忙とは、結構なことですな」
親方が通された客間は、すでに暖炉が赤々と燃えていて、すすめられた緑色の長椅子にかけると、馬車の上で張りつめていたこころが緩んでいった。
「そろそろ、お連れさまをお呼びしてまいりましょう」
「お願いいたします。馬の世話に夢中になっているかもしれません」
家令が部屋を去り、はて、と親方は思った。
彼はひとりで屋敷を守っているのだと申したが、この客間の暖かさはどうだろう。
火の番もなしに、長い時間屋敷をあけていたということか。いやはや、危うかったのかもしれない。
それとも、ほかに使用人が少しはいるのだろうか。やんごとのない世間には明るくないので、使用人の気配をさせない流儀もあるのかもしれない。
「いや、わかった、わかった。もう言いなさるな、面目ない」
廊下に出て、ひとりきりになった家令は、その途端に頭をぺこぺこ下げはじめた。
そうかと思えば、
「お前はもう、表に出るな?
何を。ならば、誰が、屋敷から出られない決まりのお前たちの用を足すのかね?
ほら、時刻に遅れた詫びの品だよ。金平糖に、塩豆、薄荷水に、苺水、皆それぞれこれでよかったかね?」
話し相手の姿は見えない。
その上、奇妙なことに、家令が歩みを進めるうちに、ずぶ濡れだった衣服も頭髪もあらたまり、涼しい顔で馬車小屋へ到着したのであった。
「穏やかな馬たちですね」
家令に言われて、小僧はくすぐったい。
「子馬の時からの、仲良しなんで」
「あなたもどうぞ、ご休憩を」
そして小僧は、先ほどの親方のように、大きな書庫と、思索のための小部屋について案内をされながら、客間へ向かった。
向かううち、小僧の濡れた履き物も袖口も、すっかり乾いて、乱れていた髪の毛もなでつけられて、様子がすっかり見違えていた。
だが、当人は、見たこともない立派な屋敷のあちらこちらに目を奪われていて、気づかなかったようだ。廊下に敷物なんて、町の役場にもないではないか。
「あの部屋に、いっぱい本があるなんて。ここのご主人は、どのような方なのでしょうね」
「ああ、そのう、」
途端に家令は言いよどみ、
「そう。あなたの馬車には、貸本を積んでいらっしゃいましたね。本がお好きですか」
「言われると、弱っちゃうんだなあ」
小僧は頭をかく。
「町から出ずに稼がなけりゃいけないおいらには、親方のところで活字を拾うか、印刷機を使えるようになるか、特別な刷りの仕事に弟子入りするか、そのあたりなんだな、道といったら。
で、今はね、とにかく本をこさえるのは面白そうだと思うんだよ。みんな、貸本でもなんでも、親方の工場で刷った本を喜んで読んでいるんだからね。
町の紙工場の、漉き直しの安い紙も、なかなかよくできてるんだよ。
でも、おいら、文字はまだ知らないのがいっぱいだしね。これからさ」
「なるほど」
「郵便馬車は、そのうち鉄道に代わって、ご用が減るから、ってさ。父ちゃんが。
親方の工場にいれば、かえってこうして馬車の用もあるからね」
「なるほど。馬と離ればなれにならずにいられるわけですね」
小僧は笑ってうなずいた。
「おあつらえむきなんだよ」
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