ストロングゼロ/オーバーホール

きょうじゅ

ストロンガー・ザン・ユアセルフ

 空き缶を捨てに行く。ストロングゼロの空き缶を。ストロングゼロの空き缶が、山ほどに詰まったポリ袋を。いつまでも、このゼミ室に、空き缶ばかりを山と積んでおくわけにはいかないから。

 ここは大学。いや、正しくはそのまた片隅の、大学院と呼ばれるエリアだが。ここは、俺が属している教授のゼミ室。だが、教授はいない。ゼミ生すらも、いない。いるのは、博士課程で腐っている、この俺一人だ。教授は何故いないか。病に倒れたからだ。癌であった。それも、膵臓の。五年後生存率、ほぼゼロパーセント。教授がここに戻ってこれる見込みは、ほぼない。つまりそれは、俺が教授の、我が師の指導下において研究を積み、博士号を晴れて取得できる見込みがもはやゼロであるということを意味した。つまり、状況は絶望的である。

 ここには、もう誰も来ない。俺は修士課程からこの大学に来た。いわゆる学歴ロンダリングといわれるものだ。とはいえ、それなりに先を嘱望されてはいたし、修士課程、マスターコースの同期十数人とは、それなりに仲良くやっていた。だが、ドクターに残った奴は五指に余らないし、その中にはさしたるほど、親しい奴もいなかった。少なくともゼミ室を行き来して交流するほどの仲の相手はもう残っていない。

 そして俺は、ゼミ室で酒を喰らう。ストロングゼロ。コンビニで売っているクール販売の酒の中で最も安く、最も強く、つまり最も冷たくさもしい酒だ。流石にゼミ室でウィスキーを煽り始めたりするほどアルコール依存症に染まり切ってはいないが、しかし、俺は世間的体面から見れば、全くの生活破綻者そのものであった。

 別に大学に住んでいるわけではない。近所にアパートを借りている。借りているが、その部屋の冷蔵庫もストロングゼロでいっぱいである。俺の生活にあるものは、絶望という言葉と、後はストロングゼロだけであった。


 ストロングゼロの空き缶をゴミ捨て場に放り出して、帰途につく。アパートに帰ろうとすると、ゴミ捨て場を漁っている、野良猫を見つけた。近寄る。人間を警戒はしなかった。大学などというところには、猫を甘やかすような類の大人は多い。ゴミなど漁っても、ろくなものがあるわけもない。俺はポケットに入っていた、酒の肴を野良猫にやった。ゴロゴロと言いながら、食べる。

 ふと、視線に気付く。誰かがこちらを見ている。女の子だった。見覚えのない顔だし、多分、雰囲気からするに、学部生だろう。別に美女というわけでもない。なんだかボサっとして、野暮ったい髪型と服装。よーく見ると、ちょっと可愛いような気もするが、化粧っ気も色気もなかった。

 じっと、こちらを見ている。こちらと、猫とを、視線を往復させている。俺はほんの気まぐれで、手招きをした。ビク、っとして、しかし、こちらに近寄ってきた。

「あ、あの。いいんですか。わたし、その、猫が好きで」

「いいよ。気にするな。別に誰の猫でもあるまいし」

 俺は猫にやっていた酒肴を一つ、手渡してやる。

「あ、ありがとうございます。ほ、ほら。猫さん。食べる? 食べるかい?」

 野良猫は彼女の手から餌をもらって食べる。

「あの……わたし、3年生なんですけど。……先輩、ですか?」

 女は小首をかしげている。3年生の先輩なら普通は4年生。今のこの春先の時期には、だいたいもうみんなスーツを着て就職活動に走り回っている頃だ。俺は、そんないいものではなかった。

「俺は……D2。博士課程二年だ」

「えっ」

 俺と、彼女は、名を名乗り合った。彼女は、れい、と名乗った。


 その時は、ただそれだけだった。少なくとも、俺はそう思っていた。名前は聞いたが、別に下心があったわけじゃないんだ。ただ、久しぶりに人と言葉を交わして、ほんの少し、気まぐれを起こしただけだった。

 春。四月。学部の4年生は、ゼミに配属される。卒業研究論文のためだ。俺はD3となる。俺のいる、師匠のゼミにはもちろん誰も配属されてなどこない……と思っていたのだが。

「こちらのゼミに配属されました。……零です。先輩、よろしくお願いします」

「君は……」

 まさか、このまま消滅を待つばかりだったこのゼミに、志望者が来るとは思わなかった。このゼミが事実上機能破綻状態にあることは誰でも知っているはずだし、論文の指導をする人間などいない。だいたい、希望者を募っていないはずだった。そう零に問うと、

「……先輩に、また会いたくて」

ときた。大学のゼミを何だと思っているのか、合コンやってるんじゃないんだぞ、と思うが、そう言われて、流石に出て行けとも言えない。言えないが、こんなゼミに物好きに入り込んできた相手に、卒論の指導を始めるほど俺は親切でもなければ、この世に生きて在ることに希望を抱いてもいなかった。

 それでも零は、何くれとなく俺に関わろうとした。俺はといえば、だいたい生返事を返して、ストロングゼロを煽りながら、古い研究書などを読み漁る日々を過ごしていた。自分の研究はもう進めていないのだが、学究は、嫌いではなかった。

「先輩。……それって、おいしいんですか?」

 と問われる。味など気にしていない、と答えると、ゼミ室の冷蔵庫にストックされているストロングゼロを、勝手に取られて煽られた。一気飲み。500ミリリットル缶。別に酒を勝手に呑まれて困るほど金に困ってはいないのだが、

「おい、それは見た目より強い酒だぞ。大丈夫か?」

「あんまり、味しませんね。別においしくもまずくもないです」

 直後は、そんな調子だった。だが、この酒は時間を置いてから回ってくるのだ。500ミリリットル缶だと、スピリッツの3から4ショットくらいのアルコールは含まれている。弱い奴だとひとたまりもない。

「お、おぅぇぇぇぇぇ」

 ゼミ室の洗面台に、盛大にストロングゼロの残滓をぶちまける零。俺は背中をさすってやった。零は自分の椅子――どうせスペースは余っているから、院生用だったスペースをまるまる1人分、零は占拠していた――に後ろにもたれて、ぐったりしている。

「よく……そんなものを……まいにち……平気な顔で、飲んでいますね」

「俺は酒が強いからな。強いと、酔えん。酔えなくていいことなど何もない。酔うために飲んでいるんだ。この世の憂さを忘れるために」

「……辛く、ないんですか」

「辛いさ。生きることは辛い。だから、俺は酒を飲む。こいつを」

 そして、俺はストロングゼロを煽る。零は憐れみを湛えた眼で俺を見ていた。


 そんな風に、日々は過ぎ、やがて夏となった。腐っている院生と、指導する者もいない学部生にも、夏休みがやってくる。どういう流れからだったか、忘れたが、零はいつの間にか当たり前のように、俺のアパートにまで出入りするようになっていた。

 俺はいつもと変わらず、ストロングゼロを飲みながら、研究書に没頭する。零は別に何をするでもなくそれを眺め、たまに俺の飼い猫と遊んでいた。

「卒論のテーマは決めたのか」

「いいえ。さっぱりです。先輩は何も指導してくれないですし」

「指導してやると言った覚えもないが」

「つれないですね」

「ああ、つれない。アル中の腐れドクターが、つれなくて何か問題があるか」

「……ほんとは、優しいくせに」

「なんだ?」

「なんでもありません!」


 俺も、こうまでされて、零が俺に向ける恋愛感情に、気付かないほど鈍いわけではない。だいたい、修士課程に在籍していた頃には、恋人がいたのだ。同じ院、そして、同じ教授の指導を受ける身だった。修士修了時、彼女は就職し、俺は大学に残った。それが破綻の引き金だった。俺は酒に溺れるようになった。彼女は職場で男を作った。それで、終わりだ。

 それが傷になっていない、と言えば嘘になる。だから今日もこの通り、俺は酒を飲んでいる。ストロングゼロ。強大なる虚無。俺には全く以て相応しい酒だと、思っていた。

 ある日、零がワインの差し入れを持ってきた。チキンも。ケーキまであった。何故ならばその日はクリスマスだったからだ。俺も零も論文を書いておらず、俺はともかく零は卒業が絶望的という状況に陥っていたが、俺はあまり知ったことではなかった。社会的に死んでいる度合いでいえば俺の方が上である。

 そのワインは、ボトルに「黒猫」と書いてあった。俺の飼っている猫と同じだ。SCHWARZE KATZ。ドイツの白ワイン。安酒だ。ペアのワイングラスは、ある。何故あるかは、前述の話から分かるだろう。そして零は、また潰れた。さすがに吐かなかったが、ぶっ倒れ、俺のベッドに寝かせる羽目になった。見事な鼾をかいている。そして翌朝、26日。

「先輩……」

「なんだ。水がいるか?」

「襲ってもいいですよ」

「襲わん」

「わたしが……綺麗じゃないから?」

「いいや」

 それは嘘ではなかった。情が移るくらいの、時間は流れていた。

「俺には、もう誰かに対する責任を負うことなんか、できない。俺は、その程度の人間だ。だから」

「そんな、寂しいこと言っちゃ……ダメですよ。先輩は……本当は、優しい人です。それに、きっと、強い人、だった。そうでしょう……」

 そう言うと、しな垂れかかってくる。強がってはきたが、据え膳も我慢の限界ではあった。俺も男だ。


 数度すうたび、事が済んで、ベッドでぐったりしていると、割と元気いっぱいの零が、台所で俺のストロングゼロを逆さまに開けていた。

「……何をしている」

「酒を飲むな、とは言いません。でも、この酒はもう禁止です」

 結局、全部捨てられた。冷蔵庫いっぱいに詰まっていた分を。


 零が空き缶を捨てに行く。ストロングゼロの空き缶を。ストロングゼロの空き缶が、山ほどに詰まったポリ袋を。


 俺たちはその日その足で、大学に二人分の退学届を叩き付けに行った。別に何も言われなかった。俺たちはあそこでは、完全なる異端者に過ぎなかったから。ゼミ室から貴重品だけを拾い上げ、大学から去る。二度と戻ることはあるまい。


「さて。これから、どうやって生きて行こうか」

「そうですね……とりあえず。初詣は、おっきな神社に行きましょう。それから」

「それから、なんだ?」

「先輩の御両親に、紹介してくださいね。私のこと」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ストロングゼロ/オーバーホール きょうじゅ @Fake_Proffesor

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ