足かせをつけないで ー高校3年生ー

「…おか、おかあさぁぁん!」

 ビクッ

 私は思わず硬直する。扉に手をかけた瞬間に耳をつんざいたのは、十花の声だった。指の先から心臓まで、一気に冷えていくような気がした。十花の叫び声は、笑美さんに何が起こったのか予想させるには十分なくらいに悲痛だった。

「本当に死んじゃってるの…?」

 ヒュッ

 喉が鳴った。まだ状況を飲み込めていないような風花の声が、やけにはっきり耳元で響いた。

「…うん」

 サーッ

 目の前が真っ暗になった。風花の問いかけに答えた桜火の声は、普段の桜火からは考えられないくらいに平坦だった。

「待ってよ…」

 風花の震えた声は、すぐに嗚咽へ変わった。

「笑美さんは…」

 お医者さんが何やら話し始めた。雷の音が聞こえる。私は一歩も動けない。

 普段はしっかり者の十花の叫び声が、私の心を揺さぶる。比較的泣き虫な風花の呆然とした問いかけが、私の心を締め付ける。やけに冷静な桜火の声が、私の心を握りつぶす。3人のイレギュラーな反応が、今ここで起きている出来事のイレギュラーさを際立たせる。私は一歩も動けない。

 体が震えているのは、雨で冷え切ったからか、それとも別の理由からか。早く扉を開けて桜火たちのそばに行かなくては。でも、そう思えば思うほど足が動かない。そして足元に広がる真っ白な床を見ていると、『この扉の向こうに、私の入る余地などないのではないか』なんて嫌味な声が、脳に響く。私は一歩も…

「真弓!」

「…おじいちゃん」

 ガクッ

 膝から力が抜けた。でも私は床にへたり込んだりしなかった。おじいちゃんが支えてくれたからだ。

「どうして中に入ら…」

 息を切らしたおじいちゃんが私に何かを言いかけた時、彼は何かに気づいたように口を閉じた。

「間に合わなかったのか」

「…ッ」

 静かなおじいちゃんの声と、私の涙をこらえる声にならない声は、雷の音に負けてしまいそうだった。

「…真弓、中に入ろう」

 おじいちゃんは大きく息を吸ってから扉を開けた。中にいた人全員の視線が私たちに集中する。桜火にすがる十花と風花の憔悴しきった様子と、桜火の真っ白な顔が、どうしようもなく見ていて辛かった。

 白いベッドにゆっくりと近づいていくと、笑美さんの顔が見えた。おじいちゃんは、ベッドの横で

「笑美」

 と、笑美さんの名前を呼んだきり、何も言わなかった。

 それから、私と桜火、十花、風花はみんなでおじいちゃんの腕の中で泣いた。雨に濡れて冷たくなっていた服が、ひと肌で生ぬるくなった。




 笑美さんが亡くなってから、2週間ほど経った。時間は無情にも過ぎていった。葬儀などの忙しい行事はすべて終わり、私たちはやるのなさからくる喪失感に嫌気がさしていた。

 居間の棚の中から遺書が出てきて、その中には私へのメッセージもあった。いつも通りのきれいな文字で、最後にはやっぱり『大好きだよ』と書いてあった。頭を撫でられた感覚が、ふと蘇る。

「桜火、入るよ」

「うん」

 私は桜火の部屋の扉をノックする。返答を待って扉を開けた。

「パン持ってきた」

「ありがとう。何パン?」

「メロンパンとカレーパンと…あとなんだっけ。あ、そうそう上に目玉焼き載ってるやつ。名前ど忘れした」

「あーあれね。なんていうんだっけ。…僕も忘れたよ」

 かすかに桜火が微笑んだ。つられて私の口角も上がる。そんな私たちの顔には、2人そろって健康さがない。

 あれから2週間。私たちは2人そろって学校を休む日が多かった。葬式の準備やら何やらでとても忙しかった。

 難しいことはおじいちゃんがほとんどやってくれた。十花は色々な感情をごまかすように、進んで仕事を見つけて淡々とこなしていった。風花は対照的に無気力に支配されていて、頑張ろうと思う気持ちとの狭間でめまいがしてふらふらすることが多かった。桜火は、想像以上に安定していた。いや、努めていつも通りでいるように心がけているようだった。そんな桜火を見て、私もしっかりしなくてはいけないと、何度も自分を鼓舞した。桜火ほどうまくやれていたかどうかは分からない。

「やっと、ゆっくり2人で話せるね」

 ベッドに座った桜火が、私を隣に座るように促した。私が座るとベッドが少し揺れた。

「真弓、葬式のこととか、いろいろありがとう。三郎さんにも、今度直接お礼しに行く」

「いいのよ」

 私は素直にお礼を言ってくれる桜火の優しさに胸がつまって、気の利いた言葉が言えなかった。2人目の母が死んで、目に見えて元気を失った姉と妹に挟まれ、忙しい葬儀をこなした精神状態で、私は果たして他の人に気をまわしてお礼が言えるだろうか。自信がない。

「あの日…真弓濡れてたね。風邪ひかなかった?」

「ひかなかったよ。大丈夫。結構冷たかったけど」

 『あの日』という桜火の一言で、意識が笑美さんが亡くなった日に引き戻される。

「走ってきてくれたんでしょ?」

「うん、でも間に合わなかった」

「…」

 声が震えた。

「走ったの。ちゃんと、走ったの」

「うん」

「でも、信号が赤だったの」

「うん」

「道路も混んでて、車が動かなかったの」

「うん」

「…走ったんだよ」

 ぽとぽとと、情けないくらいに涙が流れた。

 私は走ったのだ。走って、走って間に合わなかった。正直、こんな劇的な状況の中で間に合わないなんてことないと思ってた。ドラマや小説みたいに奇跡は起こって、努力して走った分、それに見合った何かが与えられるものだと思っていた。

 あの時、私を立ち止まらせた信号が心底にくい。あれがなければ、止まっていなければ。そんなふうに考える後悔の余地を、私に与えないでほしかった。きっと私はこれから、何度もあの信号を思い出しては後悔することになるのだろう。そんなふうに、将来への足かせを私に付けないでほしかった。

「真弓」

「ごめん、なんでもない」

 心配そうに桜火が顔を覗きこんでくる。私は、私の涙を知らんぷりしてほしかった。

 悲しみに優劣や上下を決める必要はない。決められるものでもない。だけど、今確実に泣きたいのは桜火の方で、桜火の方が辛いはずなのだ。それなのにみっともなく涙を流す自分が情けなくて、心の底から見てみぬふりをしてほしかった。

「僕は、間に合った。僕だけ、間に合った」

 そんな私の気持ちに気づいたのか、桜火は視線を私からはずした。

「間に合ってよかったと、思っているよ。お母さんが一人で死んでいくなんてそんな悲しいことないから。僕がそばにいてあげられて、よかったと思ってる」

「うん」

「でも、正直ちょっとひどいと思った」

「…」

「僕だけ間に合って、みんなは間に合わなかった。みんなを待ってほしかった。間に合った僕と、間に合わなかったみんなっていう区別をつけたくなかった。僕は『僕だけ間に合ってしまった』って思うし、みんなは『桜火は間に合ったのに』って思うでしょ。そのことがやるせない」

「それは…」

「僕のわがままだから聞き流してくれていいよ」

 桜火はゆっくりうつむいた。桜火の気持ちを考えて、何も言えなくなる。

 図星だった。『桜火は間に合ったのに』と、あの日から何回自分を責めたか分からない。だって、あの日もいつも通り一緒に帰ってきたのだ。いつもの信号で立ち止まって、右に曲がったか左に曲がったかの小さな違い。あの日、『今日は桜火の家に寄っていく』と言っていたら。何かの用事で桜火の家に行くことになっていたら。一緒に病院へ走ったら。そうじゃなかったから、『桜火は間に合ったのに』私は間に合わなかった。

 『僕のわがままだから聞き流してくれていいよ』というこの一言に、いろいろな感情がつまっているのだと思う。笑美さんも、きっとみんなを待ちたかったはずだ。それを桜火も分かっていて、それでも『ちょっとひどい』と思うくらい、あの場に桜火だけいれたことは、彼にとって大きなことだったのだろう。

「…笑美さん、最後になんて…?」

「十花と風花を守ってあげてって言ってた」

 ああ、だからか。彼が今日まで不自然なくらいにいつも通りでいようとするのは。自分がしっかりしていないと、2人を守れないと思っているのだろう。笑美さんの言葉が、私には呪いのようにも聞こえた。

「今は、私と桜火しかいないから。だから、2人を守る役目、ちょっとお休みしてもいいんじゃないかな」

「…うん」

 桜火は小さくうなずいて、大きな涙をこぼした。それから私の背後に移動して、私の背中に顔をうずめた。

「あ、雨降ってきた」

 窓の外を見ると、雨が降り出していた。あの日と同じ、雨。

「…雨は、嫌いだ」

 小さいころから空が好きな彼が、初めて空に向かって嫌悪感を示した。

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