赤信号で止まりたくない ー高校3年生ー

 今日は朝から雨だった。それもどしゃぶり。空もそんなに水分出したら、脱水症状になっちゃうんじゃない?って心配になるくらい、今日の雨は激しい。その雨の中を、私と桜火は傘を並べて歩く。

「今日のテストどうだった?」

「うーん、物理が思ったより難しくて…自信ないなあ。桜火は?」

「僕は数学の最後の問題がどうしても解けなくて、ちょっと悔しい」

「桜火数学得意だもんね。できる科目ほど、ちょっと解けないだけでも不安になるよね。分かる分かる」

 私は進行方向を見ながら首を縦に振る。確かに今回の数学のテストは難しかった。特に最後の問題。最後の方は、みんな考えてはいるんだけど手が動かないっていう様子で、シャーペンの音が止まったやけに静かな数分がやけに印象的だった。ああいう全力で時間と闘いながら頭を働かせる瞬間って、なんであんなにあっという間なんだろう。『あと何分ある!?』って時計を見るたびに、思った以上に時間が進んでいて焦る。埋まらない解答欄を見てもっと焦る。あの瞬間が受験の時に襲ってきたらいやだなあ。

「やっぱり一番できたのは国語?」

 桜火が次の質問をしてくる。

「もちろん。国語が一番得意だし、好きだからね」

「ちらっと後ろから真弓のことみてたけど、結構時間余ってたでしょ」

「私のことみてないで問題と向き合いなさいよ」

「僕も時間余ってたから」

 私は軽く笑いながら、目の前の赤信号に気づいて足を止める。今回の国語はいつもより少し簡単だった。早めに埋まった解答欄を、最初からもう一度ゆっくり見直しても10分ほど時間が余った。余った時間、私は窓際の席でぼんやり窓の外を眺めていた。まるで洗車されてるみたいだななんて思いながら、滝のように流れる雨水を見ていたのだ。今日の雨水の流れ方は、車の中から洗車の様子を見るときにそっくりだった。後ろから桜火に見られてるなんて考えてなかったから少し恥ずかしい。

「帰ったら部屋片づけないと」

 隣で桜火が少し肩を落とす。

「またおおばらにしてたの?(散らかしてたの)」

「テスト期間って部屋の掃除する余裕がないじゃん?」

「笑美さんに怒られるよ~」

「もう昨日ちょっと怒られた。『もう!またこんげ(こんな)部屋汚くして~!』って」

「ニコニコしながらプリプリしてる笑美さんが目に浮かぶよ」

 信号が青になった。この信号を渡った先で、私たちはいつも別れる。右に進めば私の家、左に進めば桜火の家だ。

「じゃあ、また明日ね」

「うんまた明日」

 私たちはそこでいつも通りに手を振って別れた。



「ただいまー!」

「あ、真弓!今電話しようと思ってたところだ!」

 桜火と別れてから10分弱。正確に言うと7分くらいして、私は北条三郎パン専門店の扉をくぐった。今日はおじいちゃんのお手伝いをする日なので、家ではなく店に向かったのだ。

 私が扉を開けると、おじいちゃんは店の固定電話の受話器を持ち上げ、今まさに誰かに電話をかけようとしているところだった。おじいちゃんは『ただいま』といった私に、『おかえり』と声をかけることも忘れて血相を変えて私の方へ走ってきた。

「落ち着いて聞いてくれ」

 おじいちゃんがそう言いながら私の肩をつかんだ。いつもなら『落ち着くのはおじいちゃんの方じゃない?』なんて冗談を言うところなのだが、今は冗談を言える空気ではなかった。嫌な予感がする。

「笑美が、病院に運ばれた」

「え⁉事故に遭ったの⁉」

「違う。もともとの病気が原因だ。だいぶ危ない状況らしい。十花が泣きながら電話してきた」

「は…?」

 私はサッと血の気が引いていくのを感じた。急に周囲の音が、私から距離を取ったのを感じる。

「真弓、病院に行くぞ」

「え…あ、うん…」

 足ががくがく震えてきた。笑美さんが、『危ない状況』…?

「真弓、しっかりしてくれ。ちゃんと立って」

 おじいちゃんが私の肩をゆする。

「田中さん、すまないね。ちょっと病院に行ってくる」

「分かりましたよ、三郎さん。任せてください」

 おじいちゃんはパートのおばさんに店を任せて、私の背中を思いっきり叩いたあと駐車場へ走った。私は制服姿のおじいちゃんに混乱したままついていき、助手席に乗り込んだ。

「間に合え」

 焦りを隠しきれないおじいちゃんは、たぶん自覚もないままにこうつぶやいた。

「…おじいちゃん、なんかすごい道混んでない…?」

「ああ…なんだ、事故か?この雨だからな、事故の一つや二つ起きちまうのは仕方ねえ。でも、なんで今なんだ…!」

 ハンドルを握るおじいちゃんの手から、少しの苛立ちを感じる。普段はこんな風に感情的になることなんてないのに。だからこそ、そんなおじいちゃんの様子を見ることも私の焦りを増幅させる。

「…ッ!赤信号だ」

 やっと進んだかと思えば、今度は赤信号に引っかかった。恨めしい。

「…おじいちゃん、私、ここから走る」

「こんな雨じゃ視界が悪い」

「でも、走る」

 私はそう言って助手席から飛び出した。おじいちゃんはそんな私を止めなかった。

「気を付けれよ」

「うん」

 私は車のドアが閉まる音と同時に走り出した。雨がすべてを濡らしていく。テスト期間の余裕がない中で頑張って捻出した10分で整えた前髪も、1週間前に洗濯したばかりの制服も、昨日アイロンをかけたブラウスも、何もかもが濡れていく。さっきまで、私は傍観者だったのに。雨をしのげる安全な場所から、頬杖をついて窓の外を眺めていたはずなのに。

「もう!また赤信号!」

 どうして、どんなに急いでいてもどんな事情があっても、赤信号は例外なしに人を止めさせるんだろう。次の予定も何もないちょっとしたドライブをしている人が青信号で、いついなくなっちゃうかも分からない人のもとへ走っていきたい私が赤信号なんだろう。

「あ、青!」

 私は瞬発的に走り出す。病院が見えた。もう少しだ。

 病院が見えてきて、急に心細くなってきた。病院が大きく見えれば見えるほど、無機質に見えれば見えるほど、小さくて感情的な私が頼りない存在に思えてくる。

「エレベーター…」

 病院に着いた。私はすぐにエレベーターを探した。エレベーターはすんなり見つかった。私はすぐさま乗り込んでボタンを押す。

「間に合え」

 心の中で何度も唱えた。エレベーターの扉が開く。おじいちゃんから聞いた部屋番号を探して早歩きで廊下をさまよう。あった、見つけた。

 私は扉に手をかけた。

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