番外編

北条真弓

強かにしがみついて ー現在ー

 私はずっと、傘を守る存在でありたかった。



 夏は、気が付いたら過ぎ去っていた。

 季節の変わり目の風邪をひきやすい時期。私は桜火の家の台所で朝ごはんを作っていた。もちろん、藤色のエプロンは今日も健在。

「雨月が少しくしゃみをしていたから、今日は体によさそうなものを作ってあげよう。生姜たっぷりの豚汁なんてどうかしら。わ、なんだか途轍とてつもなく豚汁が食べたくなってきた。朝ごはんを食べたら、神崎さんのところに豚肉を買いに行こう」

 私は桜火の家で朝ごはんを作りながら、今日の夕飯のことを考える。今日は夜、雪斗と雨月が泊まりに来る日だ。2人は今頃それぞれの家で学校へ行く準備をしている頃かな。あ、神崎さんっていうのは商店街で肉屋さんをしているおじいさんのことで、以前めんつゆをおじいちゃんにおすそ分けしてくれた人のことよ。

「桜火、朝だよ」

「え~、もうちょっと~」

 私は勢いよく階段を上って桜火の部屋のカーテンを開ける。『シャッ』というするどい音がして、窓から太陽の光が差し込んできた。朝の光は、どこか温かい。昼間の太陽よりも柔らかな光は、起きたばかりの無防備な体にはちょうどいい。

「真弓~」

「わ、ちょ」

 寝起きの桜火が、ベッドのそばに立った私の手を引っ張ってベッドに座るように促す。そのまま彼は私の腰にしがみついてきた。

 …とここまで聞くと、ラブラブなカップルのそれであるのだが、実を言うとそうではない。彼は昔から、朝誰かにしがみつきたい日が定期的にやってくる人間なのだ。このことはさすがに雪斗と雨月には言っていない。ちょっと刺激が強い光景かもしれないからね。

 初めてやられた時はびっくりしたが、理由を聞いたら離れるに離れなくなってしまった。

『朝起きて、お母さんとお父さんは死んだんだったって思い出す瞬間がどんな時よりも心細い』

 この言葉を聞いたのは小学生の時だったと思う。彼は小学2年生の時に両親を亡くしてこの町にやってきたのだ。

 小学校を卒業して中学生になって…というように時間が経っていくにつれてその頻度は減っていったが、新しいお母さん…笑美さんが亡くなってからまた激増した。

 私はいまいちその気持ちがよく分かっていなかった。だって寂しさって、夜の方が高まるイメージがあるじゃない。でも、大学生になって一人暮らしをしてみて初めてその気持ちがよく分かった。夜ももちろん寂しいけれど、朝の寂しさは格別だ。

 朝起きて、部屋に自分以外の気配がないことにふと気づく。起きたばかりの無防備な脳に響く格別な寂しさ。誰もいないって忘れてたわけじゃない。忘れてたわけじゃないけど、『あ、そうだ誰もいなかった』って思い出す瞬間。あの瞬間は、幼い桜火が言っていたように『どんな時よりも心細い』。

 まるで水の中から急に引き上げられたみたいだなと思った。水の中でゴーグルをしないで上を見上げて、ぼんやりとした外の景色を眺める。水から出た瞬間、外の喧騒が耳をつんざき、景色がはっきり目に映る。揺蕩う気持ちよさの後には、現実を見つめなければならない。

 桜火が引っ越してきたばかりのあの時、彼はこんな気持ちだったのかと18歳の四月に天井を見上げたあの日。想像した桜火の寂しさが急にのしかかってきて、自分の一人暮らしの寂しさからだけではなく、涙が流れた。十花も風花も、きっと同じ気持ちを味わってきたのだろう。

「…何か考え事してる?」

「何でもないわよ。さ、もういいでしょ、朝ごはん出来てるから早く食べよ」

「一緒に二度寝しようよ」

 そう言って桜火は私をお布団の中へと引っ張った。

 …前言撤回。これは『寂しさから来るしがみつきたい欲求』ではないな。

「…最初からこうしようと思ってしがみついてきたんでしょ」

「あ、ばれた?」

「昔からの事だからって油断してたんだけど」

「だろうね、ハハハ」

 最初から気づいておくべきだった。これは下心しかない作戦だったのだ!

 そもそもいつも決まった時間に起きる桜火が『もうちょっと~』なんて言うところからおかしいのだ。これは大体いつも私のセリフだ。桜火はだいたい決まった時間に寝て決まった時間に起きる、典型的なおじいちゃんみたいな生活スタイルだったんだんったー!全国のおじいちゃんすみません。馬鹿にしているわけではありませんよ。

したたかな奴め」

「何その口調」

「何でもない」

 不服そうな態度を取りつつも、まんざらでもない私の方が強かだ。

 誰かが温めていたお布団に入るのって、不思議な気分だ。お布団の中の優しい温かさが、お布団の外の冷たい空気に包まれた私をさらに包み込む。自分の冷たさが際立つようで、温かさが私を侵食してくるようで、心地いい。

「このままだと絶対寝ちゃうんだけど」

「寝ればいいんじゃない?」

「いやよ。せっかく早起きできたんだから、寝て終わりたくないわ」

「気持ちは分からなくもないけどね。じゃああとちょっとだけね」

「はいはい」

 私は桜火に背中を向けて横になる。しばらくすると、後ろから寝息が聞こえてきた。

 私は彼の温かさを背中で感じながら、ゆっくり昔のことを思い出していた。

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