第67話 今日も明日もくもり空
先生に呼び出されて、その背中を一歩後ろから追いかけるときの廊下は、ひどく長く感じる。悪いことをしたわけでもないのだが、なぜだか心臓は早く動くし、その音は体中に重みを持って響く。他の生徒の話し声はくっきり聞こえるようでいて、僕を切り離しているようにも感じる。端的に言うと、僕は緊張しているのだ。
「城崎くん」
先生は
「さっきはお話の途中に呼び出してごめんね」
「大丈夫です」
「河合さんと仲良かったのね」
「はい、仲良しです」
「そう」
僕の言葉に、先生がにっこり微笑んだ。小首をかしげて『そう』と微笑む先生は、学校の中でも優しいと評判の先生だ。確かに、先生が声を荒げたところは見たことがないし、いつも笑顔で、生徒だけでなく先生たちからも慕われている。
僕は先生の瞳をまっすぐ見つめながら、次に続く言葉を待った。少し手が汗ばんでくる。
僕は、先生が次に発する言葉を知っている。分かりきったことに手を汗ばませるのは、先生が何を話すかに緊張しているのではなく、自分がどういうふうに返答するかについて考えているからだ。
「最近…」
先生が口を開いた。
「おうちはどう?」
僕はその言葉を聞いて軽く息を吸った。いつもなら『大丈夫です』と一言返すだけのこのやり取りに、僕は終止符を打ちたい。
「家は…」
「うん」
先生は僕の口から出たいつもと違う言葉に少し目を見張る。それから何事もなかったように『うん』と相槌を打ってくれた。
「先生に前話した時と何も変わっていません。お母さんは仕事で忙しくて、週に何日かは
「そう…」
先生が消え入るような声で相槌を打つ。先生は伏し目がちに僕から目をそらした。目に見えて先生が残念がっているのが分かった。
「でも」
僕は先生が肩を落としきる前に続きの言葉を口にする。先生が『…え?』というように顔をあげて僕の顔を見た。
「でも先生、僕これでいいんです。十分なんです。何にも困っていません」
はっきり、丁寧に、心の底から。無理しているかどうかなんて疑われないくらい自信たっぷりに。
「お父さんと一緒に住んでいなくたって、お父さんは僕のお父さんだし、いろんな人に大事にしてもらってるって分かってるんです」
そういって僕は歯を見せて笑った。
先生がびっくりしたまま固まっている。
「…そうなのね」
しばらくして先生がゆっくり口を開いた。
「はい」
「城崎くんがまっすぐ先生の目を見て話してくれたの、すごく嬉しいわ」
先生が本当に嬉しそうに微笑んだ。目に少し涙が浮かんでいる。
その瞳を見て思う。僕は、先生を少し
優しさを、優しさのまま受け取ることは時としてとても難しい。優しさは綺麗なものである分、冷たさやそっけなさよりもまっすぐ届きにくい。綺麗であるがゆえに、優しさの中にある憐れみ、同情、そういうものを不純物みたいに感じてしまう。優しさに綺麗さを求めすぎてしまうのだ。
だけど僕は、優しさをまっすぐに受け取れる人でありたいと思う。まっすぐ優しさを伝えられる人でありたいと思う。それは間違いなく、僕の周りにいる人のおかげだ。僕の雨続きの心に、そっと傘を差しだしてくれる人。雨を一緒に楽しんでくれる人。時々雲間から明るさを届けてくれる人。そんな人たちといると、雨でもいいかなと思える。雨がいいなと思える。
「城崎くん、教室に戻りましょうか」
「はい」
僕と先生は肩を並べて教室に戻った。
「先生、心配してくれてありがとうございます」
教室の扉の前で、僕は先生に告げた。
「こちらこそ、ありがとう」
先生は本当に嬉しそうな顔をして、教務室に戻っていった。
「ただいまー!」
「たっだいま!」
僕と雨月は、元気よく傘屋くもり空の扉を開けた。
「おかえり」
「あら、早かったわね」
居間で、桜火と真弓さんがメロンパンを頬張っていた。わ、おいしそうだな。僕たちの分もあるかな。
「さあ、手を洗っておいで。なんでそんなに2人も嬉しそうな顔をしているのか、早く教えてよ」
「はーい」
僕と雨月は駆け足で洗面所に向かって、素早く丁寧に手を洗った。
「はい、雪斗、メロンパン。はい、これは雨月の分」
居間に戻ると真弓さんが僕たちのそば茶とメロンパンを用意してくれていた。
「やったー!メッロンパン、メッロンパン」
雨月がほっぺをキラキラさせて腰を下ろした。メロンパンのリズムを刻んでいる。
「今日はね」
僕が口を開けると、みんなが微笑みながら僕に顔を向けてくれた。
「先生にありがとうって言えたよ」
僕はそう言って恥ずかしさを隠すようにメロンパンを大きく頬張った。サクッという音が軽快に響く。
「雪斗くんーー--」
「わ、何なに」
うつむいていると、桜火が飛びついてきた。体が左にがくっと揺れる。
「雪斗ー---」
「真弓さんまで」
「私も交ぜてよっ」
「え、ちょ、雨月!?」
僕はあっという間に3人に囲まれた。団子状態だ。暑い…けど、いやな感じはしない。
「みんなのおかげだよ」
なんだか僕は素直な気持ちになって、いつもなら恥ずかしくて言えないようなことを言ってみる。
「うっ…僕の甥っ子がかわいすぎるんだけど、真弓、どうしたらいいかな」
「私も今感動してるの。何もできないわ。胸に矢が刺さったみたい」
「雪斗、今日は素直だね」
「うん」
僕は胸いっぱいの幸せを抱きしめる。
お父さんのこと、家族のこと、いろんな悩み事。僕の心は、これからもくもり空かもしれない。
だけど、くもり空だって悪くないとそう思える。今日も明日もくもり空、それでいい。
「何やってんだ?」
「わ、三郎さん」
みんなで団子になっていると三郎さんが急に現れた。
「鍵開いてたから勝手に入ってきたぞ」
「真弓さんと一緒」
雨月が僕に抱きついたまま微笑んだ。
「どうしたの、おじいちゃん」
「最近ずっと快晴だったからな。雪斗たち雨降ってほしいんじゃねえかと思って、ほれ」
「わー!てるてる坊主!!」
三郎さんがそう言って広げた紙袋の中には大量のてるてる坊主が入っていた。
「へへ、商店街活性化会議で時間が余ったから作ったんだ。みんなで逆さにつるそうや」
三郎さんはそう言ってニカっと笑う。
「私がさっき作ったのもあるよ!」
雨月が得意げにランドセルを開ける。雨月は意外と絵がへ…芸術的だ。顔が独特だ。
「明日は、きっと雨だね」
そう言った桜火の顔はとても幸せそうだ。
「誰が一番多くつるせるか競争しよ!」
真弓さんが珍しく子供っぽいことを言っている。腕まくりをして本気モードだ。
「負けないよ」
僕も真弓さんに合わせて腕まくりをする。
僕はそんな人たちに囲まれて思わず口角が上がるのを感じた。たぶん、こんなに嬉々とした顔でてるてる坊主を逆さにつるそうとしているのは、この瞬間僕たちだけだと思う。他の人と違っていることをするのってなんだか少し特別感があって楽しい。
「雪斗、行こ行こ」
雨月が、てるてる坊主をつるす窓際まで僕の手を引いてくれた。窓から差し込む光はやっぱり少し眩しい。僕たちの力で明日は雨にして見せようじゃないかと俄然やる気がわいてくる。
「なんか楽しくなってきた」
「僕もだよ」
僕と雨月は顔を見合わせてクスクスと笑う。
『どうか、くもり空でも雨模様でも一緒に笑いあえるこの時間が長く続きますように』
僕はてるてる坊主にそっと願いを込めてみた。
お仏壇の花が嬉し気に揺れて、逆さになったてるてる坊主が窓を占拠した。
終わり
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます