第65話 いつか古事記の面白さも分かるはず

 久しぶりの図書館開放日での収穫を、僕と雨月は満足そうに抱えて家路へつく。

「なんの本から読もうかな、早く読みたいな」

 とウキウキしている雨月の瞳がキラキラ輝いていて、『かわいいな』なんて思っていると、

「雪斗も早く読みたいって顔してるよ。目が嬉しそう」

 と雨月に言われてしまった。どうやら僕も、彼女と同じ気持ちで胸を高鳴らせているらしい。

「今日の夕飯は何かな」

「のっぺがいいなあ」

「そう言うと思ったよ。僕はグラタンがいいなあ」

「本当にグラタン好きだね」

 夕飯への期待を僕たちは口に出してみる。雨月は相変わらずのっぺが好きだし、僕も変わらずグラタンが好きだ。どっちも食べられればいいとは思うけど、この組み合わせで夕飯が構成されることはまずないだろう。

「真弓さんは何が好きなんだっけ?」

「シーフードカレーだよ。それも決まったお店の」

「そうなんだ。私も行ってみたいな」

「僕も行ってみたい」

 真弓さんは酔っぱらうと『シーフードカレーが食べたい』とよく口にする。そんなに好きなら自分で作ってもいいのに、真弓さんは自分では作らないと言い張る。なんでだろうと思っていたところに、海の見える素敵なカフェのシーフードカレーがお気に入りなんだよと、桜火がいつだったか教えてくれた。加えて『自分でも再現しようとしてるけど何回作っても満足できないからもう作らないって決めたんだよ』と耳打ちされた。どうやら、真弓さんが『自分では作らない』と言い張るだけで理由を言わないのは、ちょっとした悔しさを隠したいからだったらしい。

「くもさんは何が好きなのかな」

「鍋だよ。みんなで食べられるから好きなんだって」

「鍋ってみんなで食べるとおいしさ倍増するよね」

「桜火も同じこと言ってたよ」

「でもまだ夏だから鍋ではないだろうね、今日の夕飯」

 確かに、この夏真っ盛りの夏休み終盤で鍋が出てくることは考えにくい。夏でもアツアツのラーメンとかは食べるのに、鍋は冬の定番みたいな扱いをされているのはなんでなんだろう。鍋を温めるカセットコンロの熱で、部屋も暑くなってしまうからかな。

「まあ、真弓さんが作ったご飯は何でもおいしいけどね」

「だね」

 僕たちは夕飯に向かって気持ちを高めながら、最後の角を曲がった。


「ただいまー!」

「ただいま」

「おかえりーー!!」

 僕と雨月が玄関を開けると、真弓さんが玄関まで出てきてくれた。今日も藤色のエプロンが似合っている。なんかやけにご機嫌だな。

「真弓さん、今日の夕飯何?」

「鍋!」

「え?」

「え」

 一瞬時が止まった。雨月の問いかけに自信たっぷりで『鍋!』と答えた真弓さんの純粋無垢な瞳と、『本当に鍋?このあっつい日に?』ともの言いたげな雨月の瞳が交差している。ちなみに僕も雨月と同じ気持ちだ。このあっつい日に鍋?

「なんで鍋?」

「特に理由はないけど」

 僕の質問に軽く目をそらす真弓さん。…これは、桜火と何かあったな。こんな真夏に理由もなく桜火の好物を作ろうとすることなんてあるはずがない。

「ふーん」

「何よ雪斗、言いたいことがあるなら言ってよね」

「言ってもいいの?」

「…言わなくていいわ」

 よし、勝った。僕の表情から僕が何かを察したことに気づいた真弓さんは、詮索されると自分がぼろを出すことをよくわかっているらしい。

「先戻ってるからね!手洗ってからおいで」

 真弓さんはそう言ってそそくさと台所に戻り、僕と雨月は洗面所へ向かった。

「ねえねえ雪斗!これは真弓さんとくもさんに何かあったってことだよね!!」

 洗面所に入るなり、雨月がキラキラした目で僕に顔を近づけてきた。近い、近いよ雨月。

「たぶん…ね。真弓さんわっかりやすいなあ」

「私真弓さんのお手伝いして真弓さんから何か聞き出してみる!雪斗はくもさんよろしくね」

「あ、雨月、待ってよ」

 手を洗った雨月が駆け足で台所へ向かっていった。僕は雨月からタオルを受け取り、彼女の楽しそうな背中を見送る。桜火から何か聞き出す?桜火は意外とこういうところ、口が堅いんだよなあ…はぐらかすのがうまいというか…

「まあ、僕も気になるしちょっとは教えてくれるかな」

 僕はそんなことを思いながら、居間へ向かった。

「あ、雪斗くんおかえり」

「ただいま」

 居間へ向かうと、桜火が台所から追い出されているところだった。

「追い出されたの?」

「そう。『私が手伝うからくもさんは休んでて!』って雨月ちゃんが」

「まあ桜火が手伝うより、雨月の方が安心感あるけど」

「雪斗くん冷たいー-」

 桜火が大げさに悲しんで見せる。いつもと変わった様子はない。

「今日、いい本借りれた?」

 桜火が聞いてきた。

「うん、たくさん!早く読みたくて仕方がないんだ。ご飯食べ終わったらゆっくり読むよ」

「楽しみだね。雪斗くんは本当に本が好きだよね」

「うん、好き。ずっと読んでたい」

「今まで読んだ中で一番面白くなかった本はある?」

「一番面白かった本じゃなくて?」

「それはもう知ってるし、いっぱいあるだろうからたまには違うこと聞いてみようかなって」

 桜火が頬杖をついて窺うような目で僕を見る。その口角が優しく上がっている。僕は少し記憶をたどる。面白くなかった本か…面白くなかった本より面白かった本の印象が残るので、ぱっと名前が出てこない。

「うーん、面白くなかったというより難しかった本ならあるよ」

「何?」

「古事記。神様の名前を読むだけで疲れちゃって、内容が入ってこなかった」

「予想をはるかに超えた本の名前が出てきて僕びっくり」

「片仮名ってどうしてあんなに頭に入ってこないん…あ、じゃなくて!」

 僕は急に自分に課された試練を思い出した。桜火から真弓さんと何かあったか聞きださないといけないんだった。本の話を振られて忘れるところだった。

「ん?」

「あ、いやなんでもない…わけではない」

 …ああ、やってしまったよ。あくまでさりげなく聞き出すつもりだったのに、もう取り繕えなさそうだ。諦めよう。

「つかぬことを伺いますが」

「は、はい」

 改まった僕の様子に、桜火も背筋を伸ばした。

「真弓さんと何かありましたか」

「…フフ、直球だね」

 桜火が肩をすくめて微笑んだ。そして『うーん』と少し間をおいて、桜火は右手で自分の温かさを確かめるように首を触った。

「なんか聞かれそうだなと思ってわざと本の話を振ったんだけど、作戦失敗だな」

 桜火はわざとらしく悔しそうな顔をして見せた。そして急に真剣な表情で僕を見つめてきた。僕は、次に続く言葉に緊張して少し体に力が入る。

「失うことを怖がるよりも、今大事に思っているものを大事にしようと思えるようになっただけだよ」

「…」

 桜火は真剣な表情でそう言ったあと、ふわっと僕に微笑んだ。まっすぐな目だった。何かを決意したような、葛藤の末のすがすがしさを感じさせるようなそんな顔。だけど…

「…ごめん桜火。どういうこと?」

「え?」

 桜火が素っ頓狂な声を出した。

「過程をすっ飛ばして難しいこと言わないでよ!結局真弓さんと何があったのかちっとも分からないよ!」

 僕は立ち上がってまくし立てた。たぶん今、桜火はいわゆる『いいこと』を言ったのだろうけど、僕にはさっぱりなんのことだか分からない。失う?桜火は何かを失うことを怖がっていたのか?大事に思っているもの?桜火はいつも僕たちを大事にしてくれているじゃないか。

「ハハハ、せっかく僕今いいこと言ったのに雪斗くんのせいで台無しだよ」

「桜火がはっきり言わないのが悪いんだぞ」

「ごめんごめん。でも細かいことは話すとながーくなるから雪斗くんがまた今度ね」

「えー!」

 僕が不服そうな声をあげればあげるほど、桜火は面白くて仕方がないといった様子でケラケラ笑い声をあげる。

「子供だから分かんないとか思ってるんだろ」

「そんなことないよ。僕が雪斗くんをそういうふうに子供扱いしたことなんてないでしょ?」

「…ない」

「僕だって、話すのが恥ずかしいことの1つや2つあるんだよ。気長に待っててよ」

 桜火が本当に恥ずかしそうにこめかみを掻いた。

「でもまあ、時間が経ってから分かるようになることがあるのも事実だね。僕の言葉

も、もう少し時間が経ったらピンとくるようになるかもしれない。古事記の面白さもね」

 桜火はそう言ってムカつくくらいに上手なウインクをして見せた。

 はあ、仕方ない。気長に待つとしようか。古事記の面白さが分かるようになったら、桜火の気持ちも考えも、もっと理解できるようになっているといいな。

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