第64話 柔らかく揺れるその色は2 ー雲松桜火ー
「まず、この間は、ごめん」
僕は丁寧に言葉を探るように、ゆっくりと話を始めた。文節の
『この間』というのは、真弓とシーフードカレーを食べに行った日のことを指す。『いつになったら私は家族に入れてもらえるのか』と言った彼女の言葉に、何も言えなかった自分のふがいなさをどうしても謝りたかった。
「忘れてほしいと言ったのに」
真弓は、困ったように眉を下げて微笑む。彼女はうつむきながら、下ろした髪を耳にかけた。うつむきざまに少し目をそらしたかったのかもしれない。
「忘れることは、真弓の気持ちを無視して傷つけることになると思ったから」
「変なところ律儀なんだから」
うつむいていた顔をあげて、彼女は再び微笑んだ。顔をあげた拍子に耳にかかった髪が落ちる。
「僕は、お母さんが死んでから『家族』に固執しすぎている」
「…それを、悪いことみたいに言ってほしくないわ。私は」
真弓の瞳が、少し潤んだ。さっきまでは僕の言葉一つ一つにぎこちなくも微笑んでくれていた彼女が、悲し気に顔をゆがめる。
「悪いことでも、責められることでもないから。『仕方ないよ』なんて妥協みたいな言葉も使いたくない」
「…真弓」
彼女は居間のすみにあるお母さんの仏壇にそっと目をやり、目を伏せた。お母さんが亡くなった時のことを思い出したのだろう。お母さんの死は、真弓にとっても辛いものだった。
「僕は…どうしようもなく『家族』を失うことが怖いんだ」
彼女の悲痛な表情を見て、僕も涙が出そうになる。
「うん。前へ進めなんてきれいな言葉が、桜火にどれだけ虚しく響くかくらい想像できるわよ」
彼女の言葉に胸が詰まった。
法事や、何かの集まりに付けて繰り返された『桜火くんもそろそろ前へ進まないとね』という言葉。年を重ねれば重ねるほど、言われる頻度は多くなった。『十花ちゃんも、風花ちゃんも結婚して新しい道を歩いてるんだから』と、結婚して新しい家族を持つことが、あたかも前へ進むことかのように言われた。
その言葉に曖昧に微笑む僕。それを黙って見つめる真弓。
前へ進むって、どこに向かうことなのか、僕には分からないのに。結婚して、大事なものが増える。それはとても素敵なことなのかもしれない。でも、僕にとってそれは、失う恐怖を再び抱えることに他ならなかった。
その気持ちを、真弓が
「真弓にそう言われると、安心するよ」
『桜火くんも前へ進め』『そろそろ結婚を』『その方がお母さんもきっと喜ぶ』という僕への言葉は、悪意を持って語られたものではないことくらい、僕にも分かる。分かっているから、辛い。
「私は、本当の意味で家族を失う喪失感や苦しみを分かってあげることはできないから、想像しかできないけれど」
『分かるよ』と軽々しく口にしない彼女の気配りを感じる。
「それで十分だよ。ありがとう」
「改めて言われると照れるわ」
彼女が再び目を細めた。髪の隙間から見え隠れする耳が、少し赤くなっている。
「…あれから、考えたんだ色々」
「あれからって?」
「シーフードカレーの日。雪斗くんと家族について話したり、真弓の言葉を聞いたりした日」
真弓が納得したようにうなずいた。
「僕は…家族家族って言ってるけど、その『家族』っていうのは何を指すんだろうって」
「あら、雪斗には『分からないままでいい』って言ってたじゃない」
「『考えていけばいい』とも言ったよ」
「あ、そうだったわね。雪斗に言ったなら、桜火も考えなくちゃね」
『フフフ』と、真弓が自然に笑った。思わず僕も顔がほころぶ。
「結論から言うと、家族って何かはまだ分からないけど」
「そう簡単に答えが出るものではないわよ。私にも分からない」
一つの答えを探しているわけでも、何か『正解』だと言われる回答を求められているわけでもない問いを考えるとき、その途方もない可能性に辟易するときがある。そのことを『頂上の見えない山を登っているようだ』なんて形容される時もあるけれど、僕には『何も見えない闇の中で、正しいと思う方向に進め』って言われているように思える。
山を登るとき、僕たちは『上を目指す』という揺るがない目的がある。でも、答えのない問いを探すというのはそもそもどこが上なのか分からないものではないか。どこに進むべきか以前に、自分がどこに立っているのか分からないものではないか。
「まだ分からない…んだけど」
「うん」
僕は次に続く言葉への前置きとして、同じ言葉を繰り返した。次に言おうとしていることが、今日真弓にどうしても伝えたいことだ。緊張して、先ほどまでおさまっていた手の震えが再発した。
僕は意を決するように大きく息を吸って続ける。
「だけどあの時流れるように、家族とは『絶対に失いたくない存在で、僕が1番大事にしたい人、僕を大切に思ってくれる人ってことかな』って僕は言ったんだよ」
「言ってたわね」
「それはもう、真弓の事じゃん」
真弓が目を大きく開いた。潤んだ瞳に光が入り込んで、きれいに煌めく。
「僕はもう、真弓のことが大事で仕方がないんだ。失ったらって思うと、居ても立っても居られなくなる。血のつながりとか戸籍の話とか、そんな形式上の話をしてるんじゃなくて、真弓はもう僕にとって『家族』、いやそれ以上に…」
「ずっと、その言葉を待っていたのよ」
真弓の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。1筋の涙を皮切りに、ぽろぽろと次々にあふれる。静かな声がかすかに震えていてはかない。
「え、あ、真弓。泣かないでよ」
「泣くわよ!」
真弓は両手で顔を覆いながら、僕の言葉にかぶせるようにして言った。
「ずっと、ずっと!待ってたのよ!待つことしかできなかったのよ!隣で、見ていることしか、できなかったの…」
「真弓」
僕は立ち上がって彼女を後ろから抱きしめた。真弓は一瞬驚いたように体をこわばらせたが、すぐに体の向きを変えて僕にしがみついた。
「どうして桜火が震えてるのよ。机の手に隠した手、震えてるの知ってるんだから」
僕の胸に顔をうずめた真弓が、くぐもった声で言う。
「緊張して…」
「私があきれて離れていくとでも思ったの?」
「…思ってない。思ってないけど、最悪のケースはどうしても考えちゃうよ」
「馬鹿」
真弓が軽く僕の胸を叩いた。そしてそのままその手を僕の腰に回す。
「…桜火が私の誕生日にくれた藤色のエプロン…」
「初めての傘屋としての給料が入った時に買ったやつだね」
「藤は私の誕生花で、花言葉は『優しさ』。真弓にぴったりな花だねって言いながら渡してくれたよね」
「うん」
「藤の花言葉、他にも知ってる?」
鼻をすすりながら、彼女が問いかける。
「知らないよ」
「『決して離れない』」
僕ははっとする。
「私は『決して離れない』っていう意思を、あのエプロンを使い続けることでずっと示していたんだけど」
僕は今までの彼女を思い出す。『新しいエプロンを買おうか?』と聞いても、『これがお気に入りだから。これじゃないとだめだから』と頑なにあのエプロンを使い続けていた真弓の姿。彼女が料理をするたびに柔らかく揺れるその色は、『離れていかない覚悟』の色だったのか。
「離れていくはずないのに、臆病さんね」
真弓はそう言って僕を抱きしめる力を強めた。
「『重い』だなんて言わせないわよ」
「僕がそんなこと言うと思う?」
「…最悪のケースを想像しちゃうでしょ?」
「それもそうだね」
「でしょ?」
「真弓」
「ん?」
「ありがとう」
僕たちは、しばらくそのままお互いの温かさをかみしめていた。
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