第63話 柔らかく揺れるその色は1 ー雲松桜火ー
商店街で適当に時間を潰して家へ戻ると、居間から楽しそうな笑い声がした。軽快に響く雨月ちゃんの笑い声と、控えめで優しげな雪斗くんの声。声を聞いただけで、2人はうまく話ができたことが分かった。
僕はなんだか居間に入りづらくて、扉に手をかけたまましばらくその声を聞いていた。
「…でね。あ」
不意に雨月ちゃんの声が止まった。僕はその合間を縫って扉を開け…
「あイテ」
「ほら!やっぱりくもさん!」
自動で開いた扉が、僕の頭に直撃した。開けたのは雨月ちゃんだと声を聞いて気づく。
「帰ってきたならすぐ入ってくればいいのに!影でバレバレだったよ」
「ごめんごめん、入るタイミング逃しちゃって」
僕は軽く頭をおさえながら謝った。居間の扉は一部がすりガラスになっているので、雨月ちゃんはそこから見える僕のシルエットを見つけたのだろう。
「…痛かった?ごめんね」
「大丈夫だよ」
さすさす頭をなでる僕を見て、雨月ちゃんが心配そうな目で僕の様子を窺う。
「2人は、うまく話ができたみたいだね」
僕は、そんな雨月ちゃんの頭をなでながら言う。彼女はいったん頭を撫でられたことを恥ずかしがるようにうつむいたが、すぐにクイっと顔をあげて、
「うん!くもさんのおかげ」
と言って僕に満点の笑顔を向けた。
「桜火、ありがとう」
雪斗くんも立ち上がって僕のもとへ近づいてきた。2人のまっすぐな感謝の言葉は、僕の背中を力強く押した。
それから数日が経った。今日は、雪斗くんと雨月ちゃんは学校に行っている。なんでも夏休みの貴重な図書館開放日らしく、2人は何日も前から楽しみにしていたのだ。
僕は仕事をこなしつつ、時計を気にしていた。
時計を見ると、なんだか不思議な気分になるときがある。今僕が見ている時刻も、学校で雪斗くんが確認する時刻も、職場で風花がふと見る時計の時刻も、大体同じ時間を指していてみんながそれに従って動いている。それってよく考えてみるとすごいことだ。精神的な問題で時間は長く感じたり短く感じたりもするが、機械的にはずれることなく進んでいく。世界で唯一共有できるものは、時間だけなのかもしれない。
「あ、桜火ここにいた」
時計を見つめて考え込んでいると、仕事部屋の扉が開いて真弓が入ってきた。彼女も世界中の人々と違わず時間を共有するものの1人だ。約束通り、12時に来てくれた。僕は今日、どうしても伝えたいことがあって彼女を呼び出したのだ。
「一応玄関で呼んだのよ」
「考え事してて聞こえなかったみたい」
僕はそう言って立ち上がり、今さっき真弓が閉めた扉を開けて居間に向かう。真弓もそれに続く。
「何飲む?」
「ほうじ茶」
「りょうかーい」
僕は、台所に行ってほうじ茶の準備をする。最近買った電気ケトルがいい仕事をしてくれている。ずっと火を見ておく必要がないので、僕みたいな注意力散漫な奴にはありがたい商品だ。
「お待たせいたしました。こちら、ほうじ茶でございます」
「あ、ありがとうございますう」
淹れたてのほうじ茶を、茶番を繰り広げながら真弓に出した。真弓も設定にのって、ワントーン上がった声でお客さんを演じてみせた。
しばらくほうじ茶をふーふー冷ます無言の時間が流れた。いつもはこの何気ない沈黙もなんてことない時間であるのに、今日は少し違う。
今日僕は、『話がある』と言って真弓を呼び出したのだ。『お昼一緒に食べよう』でも、『コーヒーを飲みに行こう』でも、『ちょっとドライブに行こう』でもなく、『話がある』と。大事なことは、たいてい何かにかこつけて切り出すものであると思う。
それでもなぜ僕は、あえて『話がある』と直接伝えたのか。それは、逃れられない状況を作り出したかったからに他ならない。『お昼一緒に食べよう』などとという言葉の裏に、『話がしたい』という感情を含ませることはできた。でもそれは、その日話す内容に幅を持たせる余白を残してしまう。逃れようと思えば、『話したい内容』に触れずとも、『お昼を食べるだけ』にすることができる。
それは、もう散々やってきたことなのだ。自分自身と向き合うことが怖くて、そのことから逃げたくて、真弓を傷つけてきた。自分と向き合うことは真弓と向き合うことでもあって、自分から目をそらすことは真弓の思いから目をそらすことであった。
「真弓」
「ん?」
僕は、2口ほどほうじ茶をすすってから彼女の名前を呼んだ。真弓は湯呑に口をつけたまま、上目遣いで僕を見つめる。
「今日は、ずっと言い出せなかったことを伝えるために呼んだんだ」
「うん。分かってるわよ」
真弓はそう言いながら、湯呑を机に置いた。僕もそれに合わせて湯呑を置く。
『分かってるわよ』と柔らかく微笑んだ彼女の表情とは裏腹に、両手の指を組んだ彼女の手が小さく震えていた。
「改まった話って緊張するわ」
真弓は僕の視線に気づいて、苦笑いをした。困ったことがあると首をかしげて苦笑いをする癖は、学生のころから少しも変わっていない。
「そんなに緊張しないでほしいな」
そういいながら、僕は震える自分の両手を隠すように膝の上に置いた。
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