第62話 アンバランスな体操着

 お皿洗いは、割りそうな気配を漂わせつつも問題なく終わりそうであった。すでに今日僕たちが使ったお皿は全部洗い終わった。今は、しれっと桜火がシンクに置いていった鍋を洗っている。昨日桜火が使ったものだろう。

 僕と雨月は、いつも通りとりとめのない話をしながら皿洗いを楽しんだ。最近の啓斗くんの話を聞いたり、面白かった本の話をしたり。

「あの本は感動したよ」

「そうなんだ、僕も読んでみようかな」

「うん」

「…」

 会話が少し途切れたどことない気まずさをごまかすように、僕はお皿洗いの経過とともに赤くなっていく指先を、ぼんやり見つめた。水の冷たさに抵抗するかのようなほのかな赤色は、どこか弱弱しい。年末の大掃除の時、雑巾がけを買って出た雨月の指先も、同じ色に染まっていたのだろうか。

「雪斗、さっきはごめんね」

「え…?」

 僕が洗い終わった鍋を雨月に渡し、雨月が拭き終わった時、雨月がぽつりと言った。『カチャン』という皿同士のぶつかる音が、空気をガラッと変えたような気がした。

 僕は突然のことに驚く。

「さっきは、変なこと言ってごめん」

「雨月が謝ることないよ」

 状況をうまく呑み込めていない僕を見て、雨月はもう一度口を開いた。僕はすぐさま反応してその言葉を遮った。『変なこと』というのは、『私は何もできなかった』という雨月の言葉のことだろう。

「…雪斗はそう言ってくれると思ってたけど、謝りたかった。ふいにとはいえ、ひどいこと言ったと思う」

「そんなことないよ!ひどいこと?僕はそんなこと言われてない」

 僕は、雨月の方に向き直る。雨月は、僕の方を見ない。雨月の左側に立つ僕に、彼女は左半身を向けて、少しうつむいたままだ。

「ちゃんとお父さんに会って、頑張ろうとした雪斗に『私は何もできなかった』なんていうのは、『どうして私に何も言ってくれなかったの』って、前に進もうとした雪斗を責めていることと変わらないよ」

「そんな…」

 僕は戸惑う。まさか、雨月が謝ってくるなんて思っていなかった。そんな、誰が悪いとか、悪くないとかそういうことじゃないはずなのに。

「…雨月」

 僕が名前を呼ぶと、雨月は僕の方へ向き直った。

「僕は、雨月を責めていないし、ひどいことを言われたなんて思ってない」

「…」

「何もできなかったなんて、そんなこともない」

「え?」

 名前を呼ばれて素直に僕に向き直ってくれた雨月と目が合い、僕は少し緊張する。真面目な話はいつもなんだか逃げたくなるし、まっすぐに見つめられると目をそらしたくなる。僕はあまり人と目を合わせて話すのが得意ではない。

「雨月のおかげで、お父さんに会おうと思えたんだ」

 雨月は目をそらさない。

「雨月が、頑張ってるから僕も頑張ろうって思えたんだ」

 雨月が大きく息を吸う。

「そんな大それたこと、私してない」

 雨月は困ったように瞳を潤ませた。

「誰かの背中を押すのに、大それたことをしなきゃいけないなんて誰が決めたの?」

「え?」

「ドラマみたいな劇的な展開なんて、必要ないよ」

 ずっと見てきた雨月は、僕にはないものを持った『完璧な女の子』だった。それが、僕が雨月の『見たい部分』だけを切り取って作り上げたイメージだったとしてもだ。

 そんな大げさに言えば『神格化』していたような子が、突然いとこになって、等身大に悩んで、一生懸命父との関係と向き合っていたら、自分ももっと頑張らないとと思わずにはいられない。

「…よくわからないけれど、私は雪斗の背中を押してあげられてたってこと?」

「そう!伝えたいのはそういうこと!」

 雨月が首を横にかしげて聞いてきた。僕は勢いよく首を縦に振る。

「…分かった。つまり私たち、盛大にすれ違っていたってことだよね」

「うーん?そういうことになる?」

「だってそうでしょ!雪斗は私のおかげで頑張ろうって思えて、だけど私は何もできてないって思ってて」

「初めてここであった時、お互いの話が聞きたいって言ったのにね。ちゃんと話ができてなかった」

 僕が苦笑いをすると、

「笑い事じゃないでしょ!」

 と、雨月が一歩踏み出して僕に近づいてきた。

「雪斗が花火しながら泣いてから、私いっぱい雪斗の事考えたんだからね!お父さんと一緒に暮らしてないことすら知らなかったし、なんで泣いてるのかも分からなかったし!雪斗だって家族のことで悩んでるのに、私ばっかり何も知らずに相談してるなんて酷にもほどがある!って悩んだんだからね!」

「ご、ごめんって」

「だけど、下手に詮索するものいけないと思って何もできずにいたんだよ⁉何かしたいのに、何もできない歯がゆさが分かる!?」

 まくし立てる雨月の顔がだんだん赤くなってくのを、僕はやけに冷静に見ていた。『あーかわいいな』なんて思いながら、目の前の雨月を見ていると、ちょっと意地悪がしたくなる。

「ふーん、雨月は花火の日からずっと僕のこと考えててくれたの?」

「なっ…」

 じりじりと僕に近寄ってきていた雨月が、サッと飛びのいた。

「い、意地悪!雪斗ってすごく意地悪!」

「ごめん、つい…」

 自分でも、自分の発言が恥ずかしくなった僕は雨月から目をそらした。

 なんとなく気まずい雰囲気が流れる。

 僕はそんな空気を断ち切るように、雨月に向き直った。目が合った雨月が、少し肩に力を入れて身構える。

「…さっそくだけど、雨月。『家族』って何だと思う?一緒に話そうよ」

 僕の言葉を聞いて、雨月がパッと笑顔になった。

「なんだか難しそうで、ちょっと恥ずかしいテーマだね」

 彼女は少し意地悪く眉をあげた。

「恥ずかしいとか言うなよ…」

「仕返しだよ」

「ひどいなあ」

「さ、居間に戻ろう!お菓子食べながらお話しよう!」

「うん」

 なんだか心がすっきりしたような夏の一日。素敵な展開なのに、着ている服はダッサイ体操着なアンバランスさが、等身大な感じがして心地よかった。

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