第60話 僕はこれから急用を思い出す予定です

 そのあとも掃除は順調に進み、時間は僕を置き去りにして早足で過ぎ去っていった。

 気づくと時計は午後12時33分を指していた。

「くもさん、お腹空いた!」

 時計を見た雨月が元気よく桜火に言った。

「僕も!お昼にしようか。さっき雨月ちゃんが持ってきてくれたおかずを食べよう。十花が作ってくれたんだって?」

「そう!私も少し手伝ったよ」

「そうかそうか。それは楽しみだね」

 桜火はそう言って台所に消えていった。僕と雨月は居間に戻り、マスクを取ってひと段落する。

 今日のお昼は、十花さん特製のおかずらしい。朝、雨月が桜火に紙袋を手渡していたが、おかずだったのか。

 僕はなんとなく、さっきの雨月との気まずい雰囲気を思いだして落ち着かない。

「十花さん、何を作ってくれたの?」

 僕は、とりあえず話題を振ってみることにした。

「無限ピーマンと、豚の角煮!」

「豚の角煮⁉絶対おいしいじゃんー--。楽しみだ」

「私、昔ピーマン苦手だったんだけどね、最近食べれるようになってきたの。そしたらお母さんが喜んで、よくおかずに出てくるんだ」

「へえ、雨月にも苦手なものがあったんだね。給食、いつもおいしそうに食べてるから苦手なものないのかと思ってたよ」

「そりゃあるわよ!雪斗は?」

「え、僕?」

 雨月の問いかけに、僕はしばし考える。苦手なもの…苦手なもの…考えてみると案外浮かばない。好んで食べないものはあっても、食べたくないものはあんまりない。

「…あんまり、ないかな。強いて言えばクジラが苦手。一回お正月に桜火がクジラ汁食べようって言いだして、真弓さんが作ってくれたことがあったんだ。…あれは…真弓さんが作った料理でも、おいしくいただけなかった」

「クジラって!日常生活で困らないからいいじゃない」

 雨月が目を細めて笑った。いつも通りの笑顔に少し安心する。

「雨月はクジラ好き?」

「クジラ?そうねぇ…好きって言えるほど食べたことないけど、普通に食べられるよ」

「なになにクジラ?何の話してるのー?」

 クジラの話をしていると、桜火が台所から戻ってきた。お盆に小皿に分けた無限ピーマンをのせている。

「クジラが食べられるかって話」

「あー、クジラねぇ。何年か前のお正月にクジラ汁作ってもらったとき、雪斗くんすごい顔してたよね」

「すごい顔って言うなよ」

「苦虫をかみつぶしたような顔」

「いや、変わってないから」

「ハハハ」

 桜火はそう言って机の上に無限ピーマンを置いた。

「雪斗くん、まだ運ぶものあるから手伝ってくれる?」

「分かった」

 桜火に連れられ、僕は台所へと向かった。僕は炊飯器を目指して一直線に進み、炊飯器を開ける。ふわっと白い湯気が立って、ふっくらとしたお米のいい匂いがした。

「…雪斗くん、もしかしてさっき僕邪魔だったかな」

「え?」

 台所のシンクの前に立った桜火が、僕に背を向けながら言った。

「玄関の掃除してた時、僕何も気づかずに声かけちゃったけどそのあとの雨月ちゃん、ちょっと不自然だったから」

「あー…うん、まあちょっとね」

 驚いた。桜火は案外こういうところに目ざとい。雨月は、暗い雰囲気を悟られまいと明るさを全面に押し出して桜火と話していたのに、桜火はそれを見抜いていたのか。

「私は何もできなかったって言ってたんだ」

「雪斗くんのお父さんの事?」

「そう。雪斗は、私のお父さんとも話してくれたのにって」

「雨月ちゃんらしいね」

「うん」

 しばしの沈黙。僕はお茶碗に黙々とご飯をよそう。3人分のご飯の量なんてたかが知れているので、すぐによそい終わってしまう。

「…僕はね」

 僕は炊飯器の蓋を閉めて桜火に話し始めた。

「雨月のおかげで頑張れた部分があるんだ」

「うん」

「雨月が頑張ってたから僕も頑張りたいなって思ったんだ。雨月に相談しなかったのは、少し気恥ずかしかったからで、あえて言わなかったとかそういうことじゃないんだよ。うまく言えないけど」

「うん。大丈夫、分かってるよ」

 僕はお茶碗をお盆にのせながら話す。

 雨月に『私は何もできなかった』と言われて、本当はすぐにでも『そんなことない』と言いたかった。でも、うまく言葉に出来なくて何も言えなかった。相談しなかったのは、相談するなんてかっこ悪いとかちょっとしたプライドが邪魔をして、自分で何とかしてみせるという小さな意地を張りたかっただけなのだ。…お父さんの話をしたら、うっかり泣いてしまいそうでそれも怖かった。

「そのままを、雨月ちゃんに話してあげなよ。きっと喜ぶ」

 桜火はくるっと向きを変えて、僕の目を見た。ふわっと柔らかく笑った笑顔が、少し真弓さんに似ていた。時々2人は似たような表情をするときがある。

「眩しいよ、本当に」

 桜火がつぶやきながら、温め直した豚の角煮を器に盛って、お盆に置いた。

「ご飯を食べ終わったら、僕は急用を思い出したことになる予定だからね」

 桜火はそう言って、少しムカつくくらいに上手なウインクをして見せた。

「ウインクはムカつくけど…ありがと」

 僕は小さくお礼を言って、一歩前を歩き出した桜火の背中を追う。

 僕たちは肩を並べて居間へ向かった。

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