第53話 見えない絆のようなものを期待して

 お父さんと別れてから、僕はなにも考えずに桜火の家に向かった。家に帰るという選択肢は頭に浮かばず、まるでそうすることが当たり前かのように足があの傘屋へ向かっていったのだ。

 小説やテレビでは何か劇的なことがあった後『気が付いたら帰ってきていた』なんてことがよくあるけれど、そんなことはなかった。僕はいたって冷静に、いつもと変わらない町の風景を横目で見つめながら、なんとなく重たい足を前へ前へと動かし続けた。いつもと変わらない町の風景が、いつもより味気なく映るのは僕の心が曇っているせいか。

「ただいま」

「…」

 玄関を開けても、珍しく桜火の返事がなかった。

「ただいまー!」

「…」

「出かけているのか?」

 どうやら桜火は外出中らしい。

「もう…」

 難なく開いた玄関の扉の感触を思い出して、僕はため息をつく。

 外出するときは鍵をかけるようにあれだけ言ったのに…!丹精込めて作った傘が盗まれて一番困るのは桜火なのに…!ちなみに僕は合鍵を持っているので、例え鍵がかかっていても中に入ることはできる。

「よっこいしょ」

 僕はそんなことを考えながら玄関に腰掛けて靴を脱ぐ。いつもは立ったまま足を引っ掛けてぺぺッと脱ぐところだが、今日はなんとなく元気がわかない。

 緩慢な動きで靴を脱いで、居間へ向かった。

「ふう」

 僕は息を勢いよく吐いて椅子に座った。両手は膝の上に置いたまま、顎を机の上に置いて脱力する。

「なんだかなあ」

 僕は膝の上に置いていた左手を机の上に持ってきて、頬杖をついた。

 なんだかなあ。

 久しぶりのお父さんとの再会は、思っていたよりも物悲しいものだった。それでいてあっさりしていて、悲しくて辛くて涙が出るような強い感情を伴うものではなかった。

 パン屋にやってきた父は、記憶の中の優しい父でも暴力的な父でもなくて。顔色も頬のつやも、僕が知っているお父さんとはかけ離れていたけれど、たぶんお父さんは『出ていったあの日から何も変わっていない』んだと思った。流れに取り残された哀愁のようなものを感じた。

 あれだけお父さんに固執していたはずなのに、会ってみたら『なんだこんなものか』と思った。

 僕はお父さんに変わっていてほしかったわけでも、変わらないでいてほしかったわけでもなかったけれど、なんだかそんなお父さんを見ていられなくて。

「僕はお父さんと一緒に変わっていきたかったのかな」

 自分だけ変わってしまった罪悪感のようなものが、僕の胸を刺した。

「なんだかなあ」

 僕はもう一度そうつぶやき、机に突っ伏した。進んでいく時計の針の音が、薄情に思えてならなかった。




「…雪斗くん、雪斗くん」

「ん…」

 トントン、トントンと規則正しいリズムで肩を叩かれて目が覚めた。

「あ、おかえり桜火」

 霞む視界の中で、僕は桜火のシルエットをとらえた。

「ただいま」

 桜火はそう言って柔らかく微笑んだ。

「ほっぺに跡、ついてるよ」

 桜火が僕の頬を撫でた。いつもなら『やめろー』と反抗するところだが、脳がまだ起ききっていないのでされるがままだ。

 寝起きの目を無理に開けようとすると、瞼は全力で抵抗してくる。ぴくぴくしてなかなか開いてくれない。

「ふぁ、今何時?」

 しばらくぼーっとした後、だんだん起きてきた体を起こして桜火に尋ねた。

「午後4時13分57秒でーす」

「…ご丁寧にどうも」

 僕は大体の時間が聞ければいいと思っていたのだが、桜火は正確な時間を教えてくれた。時間を尋ねられて秒単位で答えてくる人はそうそういないだろう。57秒って。もう14分でいいだろう。

 あ、桜火なんか今日はいつもと服の感じが違う。前髪も流して固めたりなんかしてどうしたんだ。よそ行きだなあ、明らかに。あれ、そういえば真弓さんも珍しく長いスカート…

「…どうだった?」

 僕がくだらないことを考えていると、桜火が意を決したように尋ねてきた。

 こちらの反応を窺うような控えめな声。

 隣に座って僕を一直線に見つめる瞳に浮かぶ、『心配』の色。

 『どうだった?』の前に飲み込んだ、『お父さんと会って』という言葉。

「なんとも言えない気持ちになったよ」

「…そうか」

 僕が桜火を見つめ返して言うと、桜火はゆっくりと目をそらした。別に、桜火が気まずそうにする必要なんてないのに。

 僕はなんとなく机の中央あたりを見つめながら話しを続けた。

「桜火、僕ね、お父さんに会ったら、家族って何なのか分からなくなったんだ。お父さんに久しぶりに会ったら、感動して涙が出たり、やっぱり一緒にいたいってお互い思ったりするものだって勝手に思ってたよ。見えない絆みたいなものが、家族にはきっとあるはずだって、思ってたんだよ」

「うん」

「大きくなった僕を見て、お父さんはきっと改心してもう一回一緒に暮らそうって言ってくれるって何となく思ってたんだ」

「うん」

「でも。そんなことはないんだね」

「…」

「桜火、家族って何かな」

 僕は、ひどい。こんな答えのない問いを桜火に託すなんてとてもひどい。

「ごめん、答えてほしいわけじゃないんだ。誰に聞くでもなく、問いかけたいことってあるよね、ハハハ」

 僕は決まりが悪くなって、早口で弁明した。僕は笑ったけれど、桜火は笑わなかった。

「ごめん…」

 僕はもう一度謝る。

「雪斗くん」

「ん?」

 桜火が口を開いた。

「…僕の話をしてもいいかな」

 桜火が言った。

「僕の家族の話をしてもいいかな」

 返事をしなかった僕に、桜火が言い直して問いかける。

「うん」

 僕は、背筋を伸ばして桜火の話に耳を傾けた。

 

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