第52話 綺麗で虚しい心の底からの願い

 お父さんに会うことになった。

 森に出かけて行ったあの日、泣いたら案外すっきりした僕はそのまま線香花火を続行した。そんな僕の様子を見て、桜火も雨月も徐々に調子を取り戻し、さして暗い雰囲気にもならずに手持ち花火大会は終わったのだった。

 そして8月も半分が過ぎようとしている今日、僕は約3年ぶりにお父さんと会う。

 僕は北条三郎パン専門店の窓際の席に座っていた。僕のお気に入りの窓際の席を、真弓さんが取っておいてくれたのだ。そんな真弓さんは、

「ごめんね、今日はどうしても外せない用事があるのよ」

 と言って、珍しく長いスカートを履いて出かけて行った。お友達と会うのかな。

 平日の午前中ということもあって、店内は空いていた。現在の時刻は10時45分。約束の時間は11時。朝ご飯時も過ぎ、昼ご飯にしては早い…という時間を、お父さんが指定してきた。

 僕は自分の分と、お父さんの分のメロンパンを買って席に座って待つ。メロンパンはお父さんが一番好きなパンなのだ。お父さんの分だけメロンパンにして、自分は違うパンを選んでもよかったのだが、なんとなくお父さんと同じものが食べたい気分だった。

 空いた店内は、幸せな気分にさせてくれる焼き立てのパンの香りで満ちていた。窓の外ではお向かいの肉屋さんが繁盛している。今日はお肉特売の日らしい。店内ではパートのおばさんがトレイやトングを運んでいた。ゆったり時間の流れる店内から見る外の景色は店内とは対照的にせわしなく、まるで音のない映画を見ているような気分だ。

 僕はその狭間に座って、どんな顔でお父さんと会えばいいのかを考えていた。笑顔で元気に?それとも少し神妙な面持ち?最初の言葉は何だろう。元気だった?久しぶり?僕のこと、覚えてる?

「自分のお父さんに会うのに、変なの…」

 どんな顔で、どんな言葉で、お父さんと接したらいいのかも分からなくなっている自分がなんだか悲しかった。

「まあ、なんとかなるさー。成り行き成り行き」

 僕は自分に言い聞かせた。そう、物事は思い通りにしようとすればするほどうまくいかないものだ。抗わないでゆったり波に乗ろう。

『そんなことも考える間もないくらいお父さんがすぐ来てくれればいいのに』

 なんて、そわそわして早めについてしまった自分のことを棚に上げる。

「どんな顔、どんな言葉…」

 お父さんは約束の時間になっても来なかった。11時になってから秒針が一周するまで時計を見ていたが、お父さんは11時には現れなかった。

 想定の範囲内だ。お父さんは時間にルーズなのだ。

「早く来ないかな…」

 いつ来るか、いつ来るかと待ち構える時間はとても長い。

 時間は世界中どこでだって同じ長さで決まっているはずなのに、人を待っている時の時間は自分だけ取り残されているような気がして長く感じる。早く…

 カラン

 店の扉が開く音がした。僕は反射的に振り向く。

「お父さん…」

 そこには3年ぶりに見る父の姿があった。逆光で顔はよく見えないが、間違いなく父である。

「…ッ…お、お父さん!久しぶり、元気だった?お父さんの好きなメロンパン買っておいたよ!」

 近づいてくる父に、僕は手当たり次第に見つけた言葉をかけていく。うまく顔をあげられない。

「僕のこと覚えて…」

「雪斗」

 ふいに、頭の上に父の手を感じた。優しくなでられる。

「元気だったか」

「…ッ…」

 どうしようもなく、胸がいっぱいになった。言葉に詰まって、何も言えなかった。

「げ、元気だったよ。お父さんも…げん…」

 意を決して頭をあげた僕の視界に入ってきたのは、決して元気とは言えない様子の父だった。

 無精ひげを生やした顔は、土色で頬がこけている。かすかに感じるお酒の匂いと染みついたたばこの匂い。髪も寝起きのままのようでまとまっていない。

 ああ、いっそのこと記憶の中の父と思いっきりかけ離れていたら良かったのに。

 やつれた父の姿の中に、かつての父の面影を感じて悲しくなる。

「元気だったよ」

 そんな息を吸うみたいに嘘を吐かないで。

「メロンパン美味しそうだな」

 お父さんはご飯ちゃんと食べてるの?

「真弓ちゃんが作ってくれたのか?真弓ちゃん元気か?」

 お母さんのことは聞かないの?一番に聞いてほしかったよ。

「さあ食べよう」

「うん…」

 頭に浮かぶ言葉はどれもお父さんを責めるようで、僕はただ肯定することしかできなかった。

『記憶の中のお父さんとはだいぶかけ離れているかもしれないよ』 

 という桜火の言葉が頭の中でこだまする。ああ、そうか桜火はこういうことが言いたかったんだな。

「メロンパン美味しいな」

 たいしてそんなこと思ってもいなそうな顔でお父さんが言う。

「うん、美味しいね」

 僕は人生で食べたメロンパンの中で一番苦いメロンパンを食べながら答える。

 過去の記憶は美化しやすいし、汚しやすい。綺麗な思い出は必要以上に綺麗になっていくし、嫌な思い出は必要以上に汚くなっていく。

 目の前にいる父は紛れもなく3年前の父だ。やつれていても、こけていても、あの時のままの父だ。

 僕は、僕は…。父の綺麗な部分を3年かけて磨き上げ、嫌な部分を3年かけて汚し続けてきたのだと実感する。

 その『作り上げた父像』が静かに崩れ落ちたとき、この父と再び一緒に暮らしている様子が、微塵も想像できなくなった。

「学校は楽しいか」

「うん、楽しいよ。雨月と仲良くなった」

「十花ちゃんの子か」

「うん」

「本はまだ好きか」

「うん、毎日読むよ」

「…」

「お父さんはまたお母さんと僕と暮らしたい?」

 お父さんが少し黙った瞬間を見計らって、言葉が自然と零れ落ちた。お父さんと暮らしている想像ができない自分をなかったことにして、『暮らしたいよ』というお父さんの言葉で何かを取り繕いたかったのかもしれない。

「暮らせないよ」

 メロンパンを頬張る『サクッ』という軽快な音が場違いに響いた。

 お父さんは僕の望んだ言葉を言ってはくれなかった。願望を尋ねたのに、可能かどうかで返答された。僕の言葉は、うまくかわされたのだ。

「そう。分かった」

 僕はそれだけ言って、最後の一口を飲み込んだ。お父さんもメロンパンを食べ終わり、水を一気に喉に流し込む。

「お父さん、元気でいてね」

 絞り出すように口にした言葉は、まるで今生の別れのような綺麗で虚しい心の底からの願い。

「雪斗。雪斗は優しくて、一生懸命な子になるんだぞ」

 カラン

 父の背中を見送って、閉まる扉を見つめていた。



 

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